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プール帰りのお話。 


 突き抜けるような青空、じわじわと照りつける太陽が、アスファルトを焦がす。
 やかましいセミの鳴き声は絶えることなく響き、梅雨の名残を吹き飛ばす真夏の日差しは、濡れた髪を麦藁帽子の上からもちりちりと乾かしているかのようだ。
「んくっ、んっ、んっっ……ぷはぁ……、はぁーっ……♪」
 プール帰りの渇いた喉に買ったばかりのジュースを流し込み、彩花はふう、と額に浮いた汗をぬぐう。自動販売機の誘惑に負けてはしまったものの、ようやく喉の渇きを癒すことができ、茹だっていた頭にも落ち着きが戻ってきていた。
 夏休みが始まって一週間のプール通いで、すっかり日焼けした手足は、もうあちこち皮がむけ始めていた。背中の大きく開いたワンピースからは、くっきりと水着の跡がのぞき、まぶしいコントラストを見せている。
「あー、生き返ったぁ……」
 あんなに水の中に浸かっているのに、どうしてこうものどが渇くのかと不思議に思いながら、彩花はプール用具の詰まった自転車の前かごに、少しだけ残った飲みかけのペットボトルを放り込む。
 まさに、夏本番。
 始まったばかりの夏休みはまだまだ先が長く、街中にはあちこちを元気に走り回る、彩花よりも小さな子たちの姿も多く見える。
 遠くに見える入道雲をぼんやりと眺めていると、彩花のお腹が小さく音を立てる。
「……なんかお腹空いてきちゃったなぁ」
 まだ11時過ぎのはずだけれど、朝から遊び回っていた彩花の身体はさっそくお昼ごはんを要求していた。
 早く帰って何か食べよう、と決めた彩花はスタンドを外し、新調したばかりで少し高い自転車のサドルをまたぐ。
 と、
「んっ……」
 びりっ、という電流のような感覚に、思わず彩花は声をあげてしまう。
 サドルに押しあてられ、体重の掛かった股間を中心にして、じんっと響く甘い痺れが、彩花の脚の付け根からお腹の下のほう、身体の前側へと広がっていった。
 むずむずと股間の奥を刺激する感覚に、彩花は軽くサドルの上で腰をよじらせる。
(あー……、やっぱ着替える前におトイレ行っとけばよかったなあ……)
 あまり考えもなしにジュースを飲んでしまったことを、彩花は少しだけ後悔した。
 プールを上がるしばらく前から彩花の身体は尿意を訴えていたのだが、あいにくと更衣室のトイレが大行列だったものだから、順番待ちをする気にもなれず、そのまま着替えて出てきてしまったのだ。
 今にしてみれば、多少我慢してでもちゃんと並んでおけばよかったかもしれない。後悔する彩花だが、いまさら遅かった。
(……けっこう、おトイレしたいかも……)
 もぞもぞとサドルの上でおしりの位置を直しながら、彩花は自転車の前輪をぐりぐりとアスファルトに押し付ける。
 熱気と暑さと喉の渇きにいっとき忘れていたが、気づけば下腹部は硬く張りつめ、水門にもかなりの圧力がかかっている状態だった。学校の授業中でも手をあげてトイレに行きたいと訴えるか迷うあたりだし、休み時間なら、間違いなく最優先でトイレを目指すレベルだ。
「え、っと……」
 一度は家に向けて戻りかけた自転車を止め、彩花は唇に指を押し当てて考える。
 このまま家に戻るというのが当初の予定だが、それよりも先に、トイレが割りこんできそうな気配だ。
 しかし困ったことに、肝心のトイレが近くにはない。この近所には大きめの公園があるが、そこのトイレは男女共用で、入口こそ別だが中は完全に繋がっている設計なのだ。彩花としてはあまり積極的に使いたくはない……というか、できることなら入りたくないトイレの一つだった。
(……でも……)
 余裕のない下腹部は、できるだけ早い尿意からの解放を切に訴えていた。自転車のかごの中で、飲みかけたジュースがちゃぽんと揺れ、それに連動するように自転車のサドルが小さく震える。
(はやく、おトイレ行きたい……)
 空腹を塗り潰して下腹部にせり上がるダイレクトな生理的欲求が、少女の小さな嫌悪感をあっさりと上回る。少し回り道になるのを覚悟で、彩花はハンドルを逆方向に切って、公園への道を走りだした。





「よいしょ、…っと」
 公園入り口に自転車を止め、彩花はプールバックを片手に自転車を降りる。ぐうっと足の間に押し付けられていたサドルが離れ、圧迫するものがなくなった股間に、きゅうんと切ない痺れが走った。
「んんっ、ぁんっ……」
 急にやってきた感覚に小さく唇を噛んで、彩花はさりげなくスカートの前を握り、息をつめて、押し寄せる尿意の波をやり過ごす。自分でも知らないうちに彩花のワンピースのお尻が小さく背中のほうに突き出され、ふりふりと左右に揺すられてしまう。
(やぁ…っ、だめ、がまんっ……)
 ぷくり、と女の子の大事な部分に膨らむおしっこの気配に、きゅっ、と素足を交差させて、もう一方の手を自転車のハンドルに乗せたまま、彩花はしばらくその場に立ち尽くした。
「……ふぅ……っ」
 やがて、緊急警戒態勢の解除とともに、彩花はそっと緊張を緩める。
(危なかった…かもっ。で、出てないよね……?)
 硬直はわずかの間だったが、一瞬とはいえかなり危険な状態だったことに、彩花は密かにスカート下の感覚を確かめながら安堵した。ちびった様子はなかったが、下着の股布はしっとりと汗と熱気がこもり、紛らわしい感触を与えている。
 そして、おしっこの出口のすぐそばまで押し寄せてきた熱い水流は、いったん押し戻されてもまだ、出口のすぐ上あたりで渦を巻いていた。
「い、急ごっ……」
 夏の日差しに炙られておヘソの裏側でくつくつと沸騰するおしっこに急かされて、彩花は足早に公園の入り口をくぐり、まっすぐに公衆トイレを目指す。
 入口からそう遠くない場所に、目的のトイレはあった。
 古びたコンクリートの円筒形の建物は、落書きと埃で汚れたクリーム色の塗装のあちこちを剥げさせて、その上に蔦を絡めている。左右に空いた出口にはそれぞれ、紳士用婦人用の赤青マークが付いているが、中は一つにつながっていて、小用便器が二つと個室がひとつあるだけの簡素な設備なのだ。
(……うう、やだなぁ……)
 以前の苦い記憶が、彩花の足を鈍らせる。
 前にここに立ち寄ったのも、確か学校帰りの時だった。
 その時は彩花も中がこんなになっているととは知らずに、何気なく女子トイレの入り口をくぐったのだが、ちょうど中では低学年の男子たちがそろって用を足しているところだった。
 彼等は突然トイレには行ってきた少女を見つけて、男子トイレに入ってきたと勘違いし、口々に彩花を指さして大騒ぎを始めたのだった。
 誤解だと言おうにも、いちど騒ぎ出した彼等が簡単におとなしくなるわけもなく、彩花は大急ぎで回れ右、後ろ髪をひかれる思いでトイレを後にするしかなかった。
「私、別にヘンタイじゃないもん……」
 顔を赤くしながら、彩花は思い出の中の光景に口を尖らせる。
 とは言え、彼等の勘違いもまったく理不尽なものではない。昔は良くあるタイプのひとつだった入口は別でも中ではつながっている男女共用トイレだが、設備が改善された今では滅多に見られない。
 ここ以外にそんな奇妙なトイレを知らない彩花やその少年たちにとっては、ワケのわからないヘンなトイレ、くらいの認識でしかなかった。加えて、彩花が知る由もないが、この公衆トイレの中の設備は、標準的な男子トイレのそれとほぼ同じであった。
「ぅう……」
 おそらく男の人も普通に使っているだろう個室に入り、そこでおしっこを済ませるのはかなりの抵抗感があったが――それを無視しなければならないくらい、彩花の尿意は際どいものになっているのだった。





「…………」
 慎重に様子をうかがい、彩花はできるかぎりのさりげなさを装って、トイレの入り口を入る。すぐにこもった匂いと、薄暗い建物の中の熱気が押し寄せてきて、思わず顔をそむけたくなった。
(誰も、いないよね……?)
 不快感を我慢し、建物の中に入った彩花は、小用便器に向かう背中がないことを確認する。しんと静まり返ったトイレには、人の気配は感じられない。
 ぐずぐずしていると誰が来るともわからない。彩花はそのまままっすぐに個室へと向かった。
 別々の入り口に男女のマークを刻んでおきながら、ここのトイレで彩花が使える女の子用のトイレはこれひとつだけだ。不平等さに心の中で不平を言いつつも、古びたノブに使用中の赤いマークがないことを確認して、ドアをノックする。
 返事はない。
「……入ってますか……?」
 念のためにもう一度ノックを繰り返してから、彩花はドアを引きあけた。
 ぎし、と木のドアが軋み、あまり掃除のされていないタイルの向こうに、和式タイプの便器がひとつ、設置されている。洋式だったら座りたくないな、と思っていたところだったので、これは素直にありがたかった。
 後ろ手に鍵を閉め、彩花ははやる足で個室に駆け込む。
(んっ……まだ、まだっ、油断しちゃダメ……)
 どうにかトイレまでやってこれたが、ここで気を緩めるわけにはいかない。我慢が厳しいときはトイレに入った瞬間が一番『危ない』のを彩花は実体験をもって知っている。
 小さく腰を揺り動かしながら、彩花は便器の上をまたいでスカートをたくし上げる。床に触れないように慎重に布地を腰上に引き上げて、下着に指をかけ――
(よし、間に合っ……)
 腰を深く下ろそうとした、その瞬間。
「っ…………!?」
 彩花は息を止めて、戦慄した。
 まさにおしっこをしようとしたその時、彩花はタイルの上をうねる、ずらりと並んだ足を蠢かせるその姿を見つけてしまったのだ。
 はじめは見間違いかと思い、こんどはまじまじと。計5秒ばかり『それ』を見つめて、彩花は戦慄する。
 彩花が大の苦手にしている虫の、中でもとりわけ大嫌いなムカデが、脚を波打たせて便器のすぐ脇を這っていたのだった。
「っ、ひぁあぁぁあああッ!?」
 ぞわりとうなじが逆立ち、悲鳴が口を裂く。
 下ろしかけていた腰をぐいぃっとひねり上げ、次の瞬間には彩花は個室を飛び出していた。乱暴に叩き開けたドアから転がり出るようにして、公衆トイレの外まで一目散に走った。
「っ、っっ~~~~っ!!!」
 なおもそこから全力疾走で30mほどを駆け抜け、だん、だん、だんっ、と背筋に走った怖気を踏み潰すように悶え、彩花は両腕をきつく抱き締めた。
「っ、っは、はぁ、はぁっ、……や、やだぁ……もぅっ!! なによう、なんで、あーもうっ!!」
 はあ、はあ、と緊張と驚きに乱れる息を繰り返しながら、彩花は毒づいた。
 嫌になるくらい鮮明に見てしまった不気味な姿に、背中に鳥肌が立つ。ぶるる、と寒気のする腕を自分で抱きかかえ、じろり、と遠くなった公衆トイレを睨む。
「……だからこのトイレ嫌なのよぉ……っ」
 大きく溜息をついて、彩花は毒づいた。
 もう、なにがなんでもこのトイレには入れない。個室にあんな気持ちの悪いモノがいると分かっていたら、ドアノブにすらも触れないくらいだ。
「……っ」
 うぅーっ、と唸り声を上げながら、なおもしばし、彩花は理不尽な憤りをコンクリートの建物にぶつける。やり場のない怒りと恐怖が、ぐるぐると渦巻いてうまく言葉にならない。
 だが――
 わずかながら気分が落ち着き、荒くなった息が収まってくると同時、一時は忘れられていたもうひとつの切迫した事態が、自己主張を再開した。
 きゅん、と下腹部が独特の収縮をはじめ、むず痒いような感覚がじわじわとせり上がってくる。
(あ、っ……)
 下着の奥に感じる危険な痺れに、彩花は慌ててスカートの前を押さえ込んだ。
(……で、出ちゃったり、してないよね……?)
 幸いなことに下着に感じる湿り気は、汗によるもののように思えた。本当は違うのかもしれないが、あえてチビったとは思わないことにする。
「ぁう……っ」
 しかし――ちょうどまさに“出る”ところだったおしっこが突然中断され、下腹部の欲求は当然のように激しく高まっていた。断続的にきゅんっ、きゅんっ、と疼く感覚は、しっかり出口を締め付けていなければそのままおしっこが始まってしまいそうな具合だ。
「っ……ど、どうしよ……、と、トイレ……」
 このトイレが使えないことに彩花は異論はない。どんなに苦しくても、あんな気持ち悪い場所はもうトイレにカウントすらできない。誰かに一生のお願いで頼まれたって、もう二度と立ち入ることはないだろう。
 けれど、だとするなら――他にトイレは?
 当然ながら周囲を見回しても、そんなものがあるわけもない。膨れ上がる不安と共に、彩花はぎゅうっとスカートの前を握り締めた。





「そ、そんなに考え込むことじゃないよね。普通に、家まで帰ればいいだけだし」
 もともと最初はそうするつもりだったんだし――。そう、自分に言い聞かせるように、彩花は公園の入口へと戻ることにした。来た時よりも数段慎重な歩き方は、一度なりともトイレに入ってきたとはとてもではないが思えない様子だ。
(……そ、そうよ。ほんの10分くらいだもん、我慢できるって)
 そうやって具体的な数字と、明確なゴールが頭の中をよぎると、それに反応するようにじぃいんっ、とイケナイ感覚が高まってしまう。まるで頭の中に『あと10:00』を刻むデジタル数字のタイマーが点灯して、カウントダウンを始めたかのようだ。
「ぁぅ……」
 小さく呻いた手のひらは、さっきからスカートの前を離れない。当てているだけ、のはずの指が、時折びくっと力が篭められて、下着の奥に大きく膨らんだ水風船を押さえ込む。
 それらがしつこく求めるのは、女の子の羞恥心やプライドによる『おうちまで我慢』などよりもっと原始的で、シンプルな解決方法だ。
(はやく、おしっこしたい……っ)
 水分の摂取と新陳代謝の結果、当然訪れる生理的欲求は、下腹部に閉じ込めた液体の解放を切に求め、それに応じようとしない彩花にますますはしたない姿勢を強要してきていた。
 加えておなかが空いているせいでか、ぐぅ、とへこむ胃袋の分まで、膀胱が大きく膨らんでいるような気さえしてくる。
 とにかく早く帰ろう、そう思い精一杯急いで公園の入り口に戻った彩花だったが――
「あ、あれっ……?」
 公園の入り口横で、彩花は予想外の出来事に呆然と口をあけてしまった。
 抜けるような青空の下、蝉の声がむなしく響き、じりじりと真夏の日差しが地面を焦がす。来た時と寸分違わぬ夏の光景。
 しかし、入り口のすぐそば、確かにあるはずのものが、見付からない。
 ――ほんの少し前に停めたはずの自転車が、そこから煙のように消え失せていた。
「う、うそっ」
 そういえばさっき慌てていたせいで、カギをかけていなかったような――
(で、でもほんの五分くらい……なのにっ?)
 しかしそれ以外の理由は見付からない。自分の不用心な行為に、さあっと彩花の顔から血の気が失せる。
 慌てて周囲を見回すが、当然ながらそんなところに自転車が見付かるわけもなかった。来た時と同じ、人気のないアスファルトの道路で、彩花は言葉を失ってぼんやりと立ち尽くすばかりだ。
「ど、泥棒……? なによぉ、それ……っ!!」
 他に結論はないだろう。まだ買ってもらったばかりの自転車を、見ず知らずの誰かに奪われてしまったことに、彩花の胸にふつふつと怒りがこみ上げてくる。必ずつかまえてやらなきゃ、という静かな闘志を燃やす彩花だが――
 さしあたっては、そんなことよりもずっと優先すべき事項として、さらに切羽詰まった状況が少女を待ち受けていた。
「ぅぁっ……」
 ぞわわっ、とこみ上げる尿意の波に、小さく悲鳴がこぼれる。
 彩花はたまらず身体をよじり、手に提げたプールバッグを握るもう一方の手までぎゅうっと足の付け根に押し付けてしまう。
 あとは帰るだけ、のはずだった予定が大きく狂ったことに、下腹部が大きく抗議の声を上げているのだ。
(……ちょ、ちょっと……待ってよ……っ)
 つうっ、と彩花の首筋に嫌な汗が流れ落ちる。
 自転車泥棒のことは、とりあえず脇に置く。十分すぎるくらいに重大事件で、今すぐ探し回って見つけて捕まえてやりたいが、それでも――それよりももっと今は先に、早急に済ませておかなければならないことがある。
(お、おしっこ……っ)
 こみ上げてくるはしたない衝動が、少女の腰を小さく揺らす。
「え、えっと……っ」
 ぶるぶると頭を振って、優先順位を整理する彩花。
 残り、10分――すでに始まっているカウントダウンは開始から何十秒かを経過しており、こんな場所でもたもたしている余裕はないぞと、少女を急かす。
 しかしそのカウントダウンはそもそも、ここからまっすぐ自転車で家に帰った場合の残り時間だ。その自転車がなければ、彩花に残された手段は当然、徒歩のみ。残念ながらさっきジュースを飲んでしまったせいでバス代なんて持っていない。仮にあったにしても、バス停まで歩いてバスを待っている時間も惜しい。
 歩いて帰るしかないとなれば――、家までかかる時間も倍以上に伸びてしまう。それはとりもなおさず、おしっこできるのがそれだけ遅くなってしまうことを意味していた。
 この真夏の日差しの中を、おしっこを我慢しながら30分近く歩け、と。つまりは今彩花に要求されているミッションは、そういうことだ。
「ど、どうしよ……ぅ」
 極端に難易度の跳ね上がった時間制限に、彩花は動揺を禁じえない。
 その不安に連動するように、ぎゅ、とプールバッグの下でスカートの前を押さえル手に力が篭もる。じわじわと膨れ上がる尿意は、膀胱を大きく圧迫し、思っていた以上に予断を許さない事態になりつつあった。
(こ、こんなの、い、家まで間に合わない……かも……っ。す、すっごく、したくなってきちゃった……っ!)
 くつくつと煮詰まった尿意が、おヘソの裏で沸騰しているような、そんな感覚。わずかな油断もダイレクトに衝撃となってたぷたぷと揺れる膀胱に響く。
「と、とにかく、急いで……あぅっ…!」
 早く家に。あるいは早くトイレに。そのどちらでも構わないから、とにかく急いで出発する必要があった。じっとしていても、おしっこはできない。
 じいん、と踏み出しかけた足裏から伝播する振動に、思わず小さく声を上げ。少しでも気を紛らわせようとそわそわ揺れる腰をかばいながら、彩花はできる限りの早足で、公園を飛び出した。





 人生、焦っているときに限って、間の悪いことはあるものだ。
 いつまでも押さえているわけにも行かないのでプールバッグは肩に掛け、全速力で――お腹をそおっとかばいながらなので、走る、というわけにもいかなかったが――歩き始めた彩花は、公園を出た最初の交差点で、空気を読まない信号につかまってしまう。
 赤色を点灯させた歩行者用の信号に、怒ってもしょうがないとはわかっていても彩花は苛立ちを隠せなかった。
「もぉ……っ、こんな時にぃ……っ」
 ここいらの交差点はやたらに信号が長いことで有名なのだ。先を急ぐ彩花には鬱陶しいことこの上ない状況だったが、けれど中央分離帯の生垣まである片側2車線の道路は、さすがに信号無視して渡ってしまう訳にもいかず、しかたなく横断歩道の前で足を止めざるを得ない。
(せっかく急いできたのに、これじゃゆっくり歩いてても変わらなかったじゃないっ……)
 排気を巻き上げて進んでゆく大きなトラックに、ゆっくり交差点を曲がる市営バス。さらにはたくさんの乗用車。横断歩道の前を行き交う車にまだかまだかと焦れながら、彩花はなんども信号を覗きこむ。
「はやくしてよぉ……っ」
 じっとしていればしているほど、膀胱をぱんぱんに張りつめさせたおしっこは、おヘソの裏側にずしっと重くのしかかる様な存在感を増してゆくようだった。気を紛らわそうとすればするほど、かえってそれが意識されてしまい。彩花の爪先は自然、リズムを取るように小刻みに動きだしてしまう。
 彩花のおなかの中でたぷんと揺れるおしっこは、茹だるような夏の日差しで熱せられて煮詰まって、ますます濃度を濃くし、より一層強い尿意を感じさせるうような気までしてくる。
(……これ渡って、次は右で、そこからまっすぐ行って、坂を越えて……、玄関、鍵かかってるかな……開いてれば早いけど、でも……)
 まだ遥か先の家のトイレへと、彩花の心は一足に飛んでいた。想像の中では早々と家まで帰りつき、玄関を開けて靴を脱ぎすて一目散に廊下を走り、突き当りのトイレへ。飛び込んでドアを閉めて鍵をかけて、そうなればもう後は周りも気にしなくてもいい。脚を寄せあわせながらもじもじ我慢して、下着を下ろして便座に腰かけて――
「……あ、っ」
 そんな想像が、いけなかったのだろう。
 もう一方の歩行者信号が、ちか、ちか、と青色を点滅させ、まもなく切り替わることを知らせ始めたとき、ごう、と熱気を巻き上げて走るトラックを引き金に、彩花に大きな波が押し寄せてくる。
「っ、やば……っ」
 声を上げる暇もなく、両手がスカートの間に延びた。ほとんど反射的に、彩花はぎゅうっと両手で脚の間を押さえ込んでしまう。プールバッグが肩からずり落ちて、地面にぽすん、と転がった。
(あ、あっ、あっ)
 じん、じんっ、きゅうんっ、ぴくっ、ぴくぅんっ。
 女の子の大事な部分が小さく痙攣をはじめ、こみ上げてきた熱い衝動が足の付け根に溜まってゆく。前かがみになって重ね当てられた手のひらは、スカートを太ももの間に巻き込んで、直接下着の上からおしっこの出口を押さえ込む。
 その下ではぐいっと寄せあわされた膝がくっつき、サンダルの足が交互にせわしなくアスファルトの地面を踏む。
 たん、たん、たんっ、ぐらぐら揺れる上半身にあわせて、腰も滑らかにクネり、突き出されたお尻がぴくんぴくんと持ち上がる。
 きぃん、と耳の奥でかん高い音が鳴り響き、目の前がすうっと白くなる。想像の延長線上のままに、このままここでおしっこを出し始めてしまおうとする自分勝手な身体を、彩花は懸命に押さえ込んだ。





 じん、じんっ、びり、びりりっ。

 甘くむず痒く痺れるような感覚が股間を何度も往復し、ぎゅっと引っ張りあげられた下着を包み込んでゆく。股間にきゅうっと食い込む下着はしっとりと湿り、肌に張りつくようだ。
(んっ、っは、んぅ、んんぅっ……)
 は、はっ、と荒い息を繰り返し、メトロノームのように上半身を左右に揺らして、彩花は押し寄せる津波をやり過ごす。ぐうっと水圧が高まる時は必死に息を止め、わずかに緩む瞬間を見計らって息継ぎをする。タイミングを図り間違えば、一番脆い部分からそのまま津波が溢れだしてしまう。
 まるで本当に海で溺れかけているようだった。
「んっ、っ………ふぅ、はぁ……っ、あ、……っ!?」
 何十分もそうして固まっていた気がしていたが、実際はほんの数秒のことだったらしい。彩花がどうにか波を乗り越え、我に返った頃には、とっくに信号は青に変わっていた。
「あ、わ、渡らなきゃ……!!」
 車の騒音が途切れていることにふと顔を上げてそのことにようやく気づき、彩花はプールバックを引っつかむ。
 まだざわざわと落ち着かない下腹部からは、手を離すことができなかった。精一杯のさりげなさで、スカートを握り締めながら、その下を確認する。
(……よ、よし……だいじょうぶ……)
 まさかの事態には至っていないことに、彩花は大きく安堵する。
 太腿はこわばり、脚の付け根にはまだ違和感がある。背中にもぐうっと気張っていた瞬間の嫌な汗が浮かんでいた。
(あ、あぶなかったぁ……い、いまの、ホントにやばかったかも……)
 もう少し、なにかの加減で気が抜けていたり――押し寄せる波の圧力が高まるタイミングを図り損ねて、出口を押さえつける力を入れる瞬間を間違えでもしていたら、間違いなく『ちょろっ』とは――かなり控えめに考えても――“出て”しまっていたかもしれない。
 長い横断歩道を渡りきり、そそくさと歩きながら、彩花はそっと周囲を確認、背後をそろそろと振り返る。
(み、見られてなかったよね……?)
 今の“前押さえ”は、足踏みに腰振りまで組み合わせた、よっぽど小さな子でもやらないような、全身全霊の我慢だった。いまどきパントマイムだってあんなに『おしっこ、でちゃうぅう!!』なんてフリはしないかもしれない。
 確かにあとほんのもう少しで出てしまうところだったとは言え、まさか横断歩道の真ん前ではじめてしまうのは、さすがにためらわれるほどのものだった。
「…………」
 幸いなことに何度周囲を見回しても、彩花を気にしている人の視線は見当たらなかったが、それでも気になるものは気になるのであった。
 ひとまず安堵する彩花だったが、
「……んぅ……っ」
 すぐに、乗り越えたはずの波が返すように“揺り戻し”がやってくる。さっきまでのものに比べれば些細なものだが、それでも平然としているのは無理な規模だ。
 眉を小さくよじらせながら、彩花はぎゅっと唇をかみしめ、歩幅を狭めてそれをやり過ごすのだった。





(あー…っ、だ、だめ、おしっこ、おしっこしたいっ……や、やっぱ、こ、これ、どこかで……おトイレ寄らないとっ、だめかもっ……)
 家までの道のりの半分も過ぎていないところで、彩花はそう決心――あるいは挫折せざるを得なかった。横断歩道でのピンチを皮切りに、押し寄せる“おしっこがしたい”波はさらに激しくなりだしている。
 こういうものにも癖みたいなものがあり、一度なにかで我慢が辛くなると、そこから持ち直すのは相当に難しいのだ。
 往々にして生理現象に抗するのは物理的な限界よりも精神面に依存するものが大きく、残念ながら彩花はそういった“我慢”の才能には恵まれていない。
(どうしよう……どこか、近くにおトイレ、なかったっけ……?)
 まさか、見ず知らずの家の玄関を叩いて『おしっこさせてください!』というわけにもいかない。しかしこのあたりにはコンビニやスーパーも少なく、気軽に彩花が利用できるような公衆トイレはすぐには見つかりそうになかった。
 自転車ならすぐにたどり着ける距離でも、こうやって歩いてみるとなると存外に遠いものだ。普段あまり通らない道だけに、そのギャップに彩花は戸惑ってしまう。
「……んっ……」
 次々とやってくる小さな波を乗り越えながら、うまくまとまらない考えを懸命にめぐらせる。
(えっと、だから……コンビニとかって、トイレ借りたりできたっけ……? ……学校……は、全然別のほうだし、だ、誰かのおうちで……でも)
 ぶるぶると震え出す下半身が思考の邪魔をする。そんなことよりもオモラシしたくなきゃ一生懸命我慢しろ、と身体のほうが訴えているのだ。
 ますます重く鈍く、下半身の中で存在感を増す膀胱が、石のように硬く張り詰めて、時折ぴくんぴくんと出口のほうを震わせる。自分の身体のことなのに思うようにならず、まるで心も身体も小さな頃に戻ってしまうようだ。
「……あーもう、あたしの馬鹿……っ。な、なんでプール出る前に、おトイレ寄ってこなかったかなぁ……っ……」
 おまけにたいした考えもなしに自動販売機のジュースを飲んでしまったことまで思い出し、彩花はまた後悔する。水分を摂ったという想像から連動して、おなかのなかにこぽこぽっと音がして水分が注ぎ込まれてしまうようですらあった。
 いまなら、もう二度と立ち寄らないと決めたはずのさっきの公園の公衆トイレすら、歓迎できそうだった。……もちろんそれには虫がいないというのが大前提ではあるけれど。
 といって、ここまで歩いてきて今更戻ろうにも、そうはいかない。
「って、いけない、いけないっ……」
 いつのまにかトイレを探しているつもりが、頭の中が『おしっこしたい』という願望だけに変わってしまっている。まるで、またさっきの横断歩道での『やばい』のが来てしまいそうな気がして、彩花はぷるぷると首を振った。
 いずれにしても、このまま家まで持つかどうかはかなり怪しくなりだしている。勝手に始まった残り10分、のカウントダウンはのこり2分半を残すのみ。これじゃあウルトラマンにも負けてしまうだろう。
「……と、トイレ……っ」
 きゅん、と下腹部の訴えがそのまま言葉になって、彩花のくちびるをふるわせる。一応、他のトイレにもいくつか心当たりが思い浮かびはしたが、そのすべては、ここから大きく回り道をしなければならなかった。
 それくらいなら、最初からまっすぐに家を目指したほうが早い。だがそもそも、底まで間に合いそうにないからこんなことになっているわけで――
 ぐるぐる巡る思考に出口が見付からず、知らず、不安に駆られた手のひらがスカートの前を押さえてしまう。布地の上からでもはっきりとわかる、ぱんぱんに張り詰めた下腹部と、じんっ、と響く甘い痺れに、ますます彩花の心はざわつき出す。
(っ……お、おしっこ……)
 おしっこのタンクと直結したバルブが、高まる水圧に耐えかねてカタカタと揺れている。別に悪いことをしているわけではないのに、彩花は思わず周りを見回してしまう。普段はあまり着なれていない、女の子っぽいワンピースを着ているせいなのか、なんとなくいつもならなんでもないはずのことが妙にやりづらく感じられた。





『工事中 通行止め』

 大きな文字が行く手を塞ぐ。交通整理のお兄さんと四角い看板の向こうでは工事の人たちが多勢でアスファルトを剥がし、がりがりとドリルのようなもので地面を削っている。
 彩花の不幸は続く。まるで、町中の何もかもが結託して彩花に意地悪をしているかのようだった。
「んもぉ、急いでるのにーっ……!!」
 思わず漏れた悪態と共に、通行止めの看板を睨み、彩花はきゅっと唇を噛んだ。
 看板には迂回路の地図もあるが、どう見ても大きく遠回りを余儀なくされるルートであり、ゴールまでの距離をさらに遠ざけるものあった。
 残り時間10分で始まったカウントダウンは残りわずか数十秒。ロスタイムは確定間違いなしだ。……というよりも、ロスタイムのほうが明らかに長いだろう。
(んんぅ……っ)
 看板の前で立ち往生している彩花を、容赦なく尿意が襲う。腰がくねくね揺れそうになる。左右の脚がたん、たんと足踏みを始め、膝がぎゅっと重なって、爪先がぐりぐりとアスファルトをねじる。
「通行止めでーす。すみません。迂回してくださいー」
 未練がましく通行止めの看板前に立っている彩花を促すように、赤いライトブレードを振るう交通整理のお兄さんが言ってくる。
 その上でなお通行止めを突破するなんてことは、彩花にできるはずもなかった。赤くなった顔をそそくさと背け、渋々迂回路に入る。
(おしっこしたい……はやくおしっこ、おしっこ、でちゃう……っ)
 『おトイレ』ではなく『おしっこ』。
 よりもダイレクトに身体の欲求に従う言葉で、どんどん頭の中が塗りつぶされていく。おなかの中だけではなく、頭の中までおしっこでいっぱいになって、彩花の歩みはよちよちと小さな歩幅の、おぼつかないものに変わっていた。
 迂回路は彩花の通ったことの無い道で、さらに少女の不安を加速させた。
「……えっと……っ」
 さして広くない道は、進むに連れて最初の方角から違う方向に曲がっていく。目的地からさらに逸れてゆくことに、彩花は徐々に焦り出していた。このままだと全然違う場所に出てしまうと思うのだが、どこまで歩いても元の道に戻る方向に道が見つからない。
「も、もおいいや、この辺に入ればっ」
 とうとう痺れを切らし、彩花は近くにあった狭い路地の中に飛び込んでしまった。ほとんど人が一人通れるかどうかくらいの狭く入り組んだ道を、勘を頼りに進んでゆく。
(た、たぶん……こっちの方に……)
 だいじょうぶ、だいじょうぶ、と自分を励ましながら彩花は折れ曲がった路地を歩く。旧い住宅街の一角らしい路地は、左右に複雑にうねり、ぐねぐねと曲がり続けていた。
「っ……」
 ぴくん、と背筋が震え、彩花の手のひらが再度、ぎゅっとスカートの上から脚の付け根を押さえ込んだ。せめて人目が無いのが幸いだった。人前ではできないような我慢の仕草を繰り返しながら、彩花は精一杯急ぐ。
 が……
「え、っと……」
 歩けども歩けども先が見えない。まるで迷路のように入り組んで枝分かれした路地は、4、5回曲がったところですっかりどこへ向かっているのか分からなくなってしまっていた。背伸びをして先を見通そうにも、見覚えのある目印は見当たらない。
 そして。
 彩花はとうとう路地の側にある『この先通り抜けできません』の文字に突き当たる。いつの間にか、完全に道に迷ってしまっていたのだ。
「そ、そんなぁ……っ!!」
(う、嘘、だってさっきの方じゃなくて、こっちなら……んっ、……くぅぅ)
 普段の彩花がこんなことで道が分からなくなるはずはなかった。
 トイレを我慢し続けることに懸命なせいで、物事を考える余裕がなくなっているのだ。今の彩花では二桁の暗算すら普通にできるかもあやしいだろう。
 道は行き止まりだが、その一方で彩花のおしっこは行き止まりの指示を無視し、出口を突き抜けようとしている。下腹部のティーポットはぐらぐらと沸騰をはじめ、じんじんといけない予兆を響かせていた。
「ぁ……っ」
 ちりちりとつのる尿意は脚の間を通り越して股間の先端まで達し、突如『通行止め』にされた本来の出口を迂回して、いっそおヘソあたりから噴き出せないかと試してでもいるようだ。
 ぎゅうっ、と握り締めたスカートの布地の下で、またひくんっ、ひくんっ、と出口が痙攣をはじめる。
「ぁ、あっ、あ……」
(ど、どうしよぅっ……)
 うろたえながら後ろを振り返る彩花。しかし、そこには当然のように、迷いながら歩き続けてきた路地が続いている。
 もはや、尿意は限界に達しつつあった。





「ど、どうしよう……ホントに、これじゃあ……っ」
 10分のカウントダウンを超過し、ロスタイムに突入した我慢の中、切羽詰った声が、切なく喘ぐ息の隙間からこぼれる。
 彩花の視線は、路地の片隅、電柱の根本へ向けられていた。
 たまに、飼い犬の散歩をさせている人が、そういうところで犬におしっこをさせているのをみることがある。ペットにもトイレがあるが、犬は別に外でおしっこをしたって怒られたり恥ずかしがられたりしない。
 そして、滅多にないことではあるけれど、彩花は男の子や男の人が、やはり電柱の根本や道端でおしっこをしているのを見たこともあった。
(ぅ……そうよ、男の子なら……べ、べつにそのへんでしちゃうこともあるのに……っ……)
 けれど、女の子はそんなことは絶対にできない。
 お外の、しかも誰が通るとも分からない道端で、お尻を丸出しにしてしゃがむなんて――絶対に、絶対にありえない。
 ……ありえない、が。
「で、でもっ。もし本当に、間に合わなくなっちゃって……パンツ汚しちゃうくらいなら……っ」
 オモラシと、どっちがいいのかと二者択一を突き詰められれば、その時は……
 そうやって『ありえない』を仮定した想像をするうち、彩花のおなかはさらに硬く張り詰め、身体の外へとわずかずつせり出してゆく。
(もし、もしも、だけど。本当にそうなっちゃったら……やっぱり……)
 あくまで仮定を貫いたまま、彩花は『その時の場所』を吟味し始める。
(で、できるだけ、見えないトコで……人も来なくて……)
 排泄を渇望する心のまま、道脇の排水溝や、曲がり角の手前の小さなくぼみ、カーブミラーの根元、フェンスの脇……あちこちを移り変わる視線の先に、彩花は自分でも知らないうちに『おしっこのできるトコロ』を探し求めてしまっていた。
 ふと我に返って自分を叱咤しようとするが、
(だ、だから、そうじゃなくって、そもそもお外でおしっこなんか……だめ、なんだからっ……!!)
「んっ……」
 そう強がる心とは裏腹にまた“ぴくん”と反応しそうになったおなかを押さえ、彩花はきゅっとおしりの孔に力を込めて、小さなおなかのなかいっぱいに膨らんだ水風船を、身体の内側に抱えなおす。
 しかし、一度そう考えてしまった頭からは、そう簡単におしっこの誘惑は振り払えない。たとえここが往来の道端だとしても、そこにしゃがみ込んで我慢に我慢を重ねた熱いほとばしりを思う存分噴出させるその心地よさの想像は、がっちりと彩花の心をつかんで離さなかった。
(で、でも、だめだけど、ほ、ホントはだめだけど……っ)
 ちら、と道の隅に都合よく引っ込んだスペースを覗き込んだまま、彩花の脚は我知らず、ふらふらとそこに近づいてしまう。とく、とく、と心臓が高鳴り、その鼓動に連動して下腹部に響く痺れも高まっていく。
 我慢の大半は心によるものだ。諦めてしまえば、そこで限界がやってくる。
 ぎゅっと服の上から下腹部を押さえていた手のひらがわずかに下に動き、スカートの前をぎゅっと掴む。そのまま裾を上に引っ張れば、あとは下着をずらすだけで、おしっこの準備は整うのだ。
 だめ、だめと思いつつも彩花の視線はきょろきょろと周りを見回して、誰も来ないことを丹念に確認する。
(こ、ここで……っ)
 ごくっ、と小さな喉が鳴る。自転車をなくしたせいで絶望的に遠い家までの道のりと、ロスタイムとなったカウントダウン。『オモラシ』と『トイレ以外でのおしっこ』を左右の秤に乗せた天秤が、がくんと右側に傾いてゆく。
 どき、どき、と口から飛び出しそうな心臓の鼓動を感じながら、彩花はプールバッグを近くに放り出し、。壁に背を向けた。ちょうど電信柱にお尻を向ける格好で、片手でスカートを掴みたくしあげて、もう一方の手をスカートの中に入れ、股間を覆う股布をずらし、その場に深く腰を落としてゆく。
(だ、誰も見てない……うちに……っ)
 初体験となる路上でのおしっこを始める用意は整った。最期にもう一回、念入りに周囲を確認し、彩花は硬く締め付けていた出口の力を抜く。
「んっ……」
 我慢しすぎていたためか、ぢくっ、とおしっこの出口に鈍い痛みが走った。同時にじわぁっ、と脚の付け根に熱を感じ、それが大きく膨らむ。
(あっ、……でるっ……)
 とうとう排泄本能に屈してしまった自分を、彩花はどこか他人事のように感じていた。





 深く下ろした腰、太腿の付け根から勢いよく弾けた水流は、遮るものの無い足元善方の空間へと飛び出し、小さな水音を響かせる。
「っあ……」
 ぎゅっと目を閉じ、彩花は不安を押し殺しながら、オシッコを済ませて立ち去るまでの数分間、せめて誰も来ませんようにと強く強く念じていた。

 ぷしゅ、じゅっ、じゅじゅううううう……

 熱い先走りに続いてすぐに大きな水音へと変化した水流は、左右に大きくのたうちながらアスファルトの地面を直撃した。土の地面なら激しくえぐって孔をあけんばかりの勢いで、アスファルトの上にぶつかった強烈なおしっこが周囲に飛沫を散らせてゆく。
 夏の熱気にも負けないくらいに熱い水流は、ほわほわと湯気を立てそうに狭い路地裏に拡がり、たちまち彩花のおしっこの匂いが満ちてゆく。
(……っ、は、はやく終わって……っ)
 どっどっどっ、と全力疾走した時のように鼓動がフル回転し、顔じゅうにかあっと血がのぼってくる。今、自分が何をしているのかがはっきりと自覚でき、彩花は頭から火を吹き出しそうな猛烈な恥ずかしさを覚えていた。
 トイレではない場所で、おしっこをしてはいけない場所でおしっこをしていることへの罪悪感と羞恥心。“きゅうん”と反応を始めてしまう脚の付け根にヘンな力が入り、じゅぶ、じゅぅじゅうぅ、と間断を付けて地面におしっこが跳ね回る。
「はぁあ……っ」
 長時間の我慢からの解放に、思わず甘い吐息もこぼれた。しゃがんだ脚がぷるぷると震え、緊張を強いられていた背筋が弛緩する。身体の中心から熱が毒と一緒に流れ出して行くような心地よさは、想像を絶するほどの解放感を伴う。
 アスファルトの上で小さく泡を立てながら、薄く黄色に色づいたおしっこはあっという間に大きく広がり、さらに路地の隅から低いほうへと流れ出してゆく。
(…ま、まだ……でる……っ、とまんない……っ、やだぁ……っ!!)
 初体験の路上排泄は、ちくちくと繊細な少女の羞恥心を刺激する。どくどくと熱い頭が沸騰しそうになり、心ばかりが早く早くと焦る。
 しかし、少しでも長くおしっこを我慢しようとしていた身体に、今度は少しでも早くおしっこを出せと言っているのだから、うまくいかないのは当たり前だ。
 しゃがみ始めてから1分近くが過ぎ、それでもなお彩花のおしっこは終わらなかった。ますます勢いを増しながら、薄黄色の水流は泡立った水たまりの上に激しく注がれて、じょぼじょぼと恥ずかしい音を響かせる。地面に水を吸い込まないアスファルトの上には水たまりが出来上がり、さらに路地のまんなかに勢力を広げた。
「あぅ……っ」
 真っ赤になった顔を深く伏せて、彩花はくちびるをきゅっと噛む。
 もう、どう言い訳しても取り返しの付かないことをしてしまったのが、改めて理解できた。この上誰かにこの状況を見られてしまったら、それこそ恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。
 道の隅っこで始めたはずのおしっこは、いつしか狭い路地裏をすっかり占領し、そこを彩花のおしっこのための場所に変えている。オトナでもまたぐのも難しいような大きな水たまりが路地を占領し、ぱちゃぱちゃと水音を響かせて水面を揺らす。
 彩花の出したおしっこの水面には、さんさんと輝く夏の日差しが、ゆらゆらと揺れていた。



 (初出:書き下ろし)
[ 2009/08/30 16:12 ] 小説 | トラックバック(-) | コメント(-)

第12夜 ウサギとカメ 


 むかしむかし、あるところにウサギが住んでいました。
 ウサギはとても足が速いのが自慢でした。力じまんのクマも、気難しくて嫌われ者のオオカミも、立派な王様のライオンでさえも、かけっこで勝負をすればウサギにはかなわなかったのです。
 今日もウサギはゴールの丘の上、ぴんと立った耳を揺らし。丘の上の木陰で、ゆうゆうと大好きなニンジンのジュースを飲んでいました。
「ぷは……勝利の味はまた格別ねっ♪」
 見下ろしてみれば、今日のかけっこ勝負の相手であるキツネは、まだ丘のふもとにさしかかったばかりです。いつもはずる賢くクマやライオンにくっついて威張っているキツネも、まさかウサギがここまですばしこいとは思っていなかったのでしょう。
 すっかりへばって汗だくのあの有様では、ここまで登ってくる前に日が暮れてしまうかもしれません。
「それにしたって、どいつもこいつも遅いわねぇ。まーたあたしの勝ちじゃない」
 ごくごくとジュースを飲み干して、ふぅとウサギは息をつきます。
 軽く湿った短い髪を払い、スパッツのしっぽをふわりと逆立たせて、退屈そうに欠伸をひとつ。
「ふわぁああ……ほーんと、相手にならない奴ばっかりでつまんないわねー……」
 とうとう丘のふもとで倒れてしまったキツネに、慌てて駆け寄ってゆくツバメやリスを見下ろして、ウサギはすっかり興味をなくしてしまいました。
「もーいいわ、帰っちゃお」
 このままキツネがゴールするのを待っているのも馬鹿らしくなったウサギは、とっとと丘を後にすることにします。
 自慢の脚でぴょんぴょんと、まるで風のように丘を駆け下りたウサギは、道すがらにふと見覚えのある姿に出くわしました。
「あら~……ウサギさん~……ご機嫌よう~……」
 間延びした声は、三叉路のずっと向こう側。
 大きな甲羅を背負ったのんびり屋のカメが、長い髪を揺らし、ずれた眼鏡を直そうともせずにほわんとした笑顔で手を振っていました。
「今日はぁ~……どうしたんですかぁ~……」
「どうも何も、見てわかんないかしら?」
 カメのじれったいほどの間延びした声に、ウサギはちょっとイライラしながら答えます。
「ええとぉ~……すみません~……ワタシ、トロいもので~……」
「……ぁあもう、うっとうしいわねアンタの喋り方!! 勝負よ勝負。かけっこ勝負で勝ったのよ!! あのキツネのやつにねっ!!」
「そうなんですかぁ~……」
「ふふん。これで99戦99勝、負けなしなんだから。あたしなら、もしライオンに追いかけられたってかるーくぶっちぎってやるわよ」
「へぇ~……すごいですねぇ~……」
 カメは相変わらずのほわんとした表情のまま、こくこく頷きます。本当にすごいと思っているのか、いまいちはっきりわかりません。
 なんとなく馬鹿にされているような気がして、ウサギはカメに言います。
「ねえ、わかってんの? この森で一番速いのってあたしなの。あたしがこの森で一番すごいのよ?」
「えぇ~……そうですねぇ~……」
 しかし、カメの様子は変わりません。眼鏡の奥のニコニコ笑顔のほわんとした糸目はまったく動かず、なんだか寝惚けているようにも見えます。
 せっかちなウサギは、カメのこのとろとろした性格が大嫌いでした。
(いいわ、相手にしてるだけで疲れるし。無視よ無視っ)
 いい加減、話しているのも嫌になって、ウサギはカメを放ってそのまま家に帰ろうとしました。いつもならこれで会話は終わり、立ち去るウサギに置いてきぼりにされ、カメはのたのたとゆっくりどこかへ歩いてゆくのです。
 けれど、今日のカメは違いました。
「……? でも~……でしたらぁ~……どうして~……こんなところに~……?」
「は? 何が?」
 意味が分からず、ウサギは怪訝な顔をして耳を揺らします。
「たしか~……かけっこ勝負のぉ~……ゴールはぁ~……丘の上じゃぁ~……ありませんでしたっけ~……?」
「良く知ってるじゃない。のろまのくせに」
「有名ですよぉ~……」
「ふん、だってアイツが来るの待ってたら日が暮れちゃうもの。そこまで付きあってあげる義理なんかないじゃない。あたしが勝ったんだからさ、負けた奴のこと気にする必要ないわね」
「……でもぉ~……それはぁ~……キツネさんに~……失礼だと思いますよぉ~……」
「失礼? なんでよ?」
 カメの言うことがわからず、ウサギは口を尖らせます。
「正々堂々の~……勝負なんですからぁ~……、相手のことも~……待っていてあげないと~……。キツネさん~……ひとりぼっちでぇ~……かわいそうです~……」
「かわいそうなことないわよ。アイツの足が遅いのが悪いだけよ」
「足が遅いのは~……別にぃ~……悪くないと思いますよぉ~……」
 やけにキツネの肩を持つカメに、ウサギはとうとうカチンときてしまいました。
 話し始めてもうずいぶん経つのに、さっきから全然前に進んでいないカメを見て、ウサギは意地悪くへぇ、と笑みを見せました。
「悪いわよ。とろとろして、うっとうしいもん。アンタなんか一番そうじゃない」
「そうですかぁ~……? ワタシは~……別に~……気にしませんけどぉ~……」
「そうかしら。家から湖まで行くのにも半日がかりなんでしょ? あー、やだやだ。そんなゆっくり生きてたら退屈で死んじゃうわ。アンタみたいな風に生まれなくて、ホント良かったわ、あたし」
「…………」
「なによ?」
 じぃっとこちらを見つめる(とは言ってもカメの目は相変わらず開いてるのかどうかも分からない糸目なのですが)カメに、ウサギは聞き返します。
 なにごとか思案していたカメは、しばらく返事をしませんでした。
 ウサギがいいかげんじれったくなってまた文句を言おうとした頃に、ようやくカメはまたのんびりと言います。
「じゃあ~……ワタシと~……勝負~……してくれませんかぁ~……?」
「勝負? たいした度胸じゃない。……いいわよ、なにするの?」
「かけっこ~……です~……」
「はぁ?」
「ですから~……かけっこ勝負です~……ウサギさん、得意ですよね~……?」
 のんびりと見上げながらボケた提案をしてくるカメに、ウサギはとうとう吹き出してしまいました。
「ぷっ、あっはははは!! ねえ、ちょっと本気? あはははっ、あ、アンタみたいなとろいのがあたしとかけっこ? 勝てるワケないじゃないのっ!! あははっ、おっかしーいっ!!」
「……本気ですよぉ~……負けたら~……ウサギさんの言う事は~……なんでも聞きますからぁ~……」
 カメは相変わらずの笑顔で、のんびりとウサギに言います。
「そのかわり~……もしワタシが勝ったらぁ~……もう、他のひとのことを~……悪く言っちゃダメですよぉ~……?」
 カメがどうやら本気らしいということを知り、ウサギは自信たっぷりに腕組みをしました。
「ふん、いいわよ。後悔したってしらないから。……いつにするの?」
「ワタシはぁ~……いつでもいいですよぉ~……」
「じゃあ明日の朝、お日様が登ってきたら一本杉の根元の切り株からスタートよ。ゴールはいつもどおり丘の上。先に着いたほうの勝ち。いいわね?」
「はい~……わかりましたぁ~……」
「遅刻するんじゃないわよ? まあアンタのことだから、今から一本杉まで歩いていっても朝までに着けないんじゃない? あっはははは!! じゃあね、のろまのカメさんっ♪」
「では~……また明日~……」
 うなずくカメを馬鹿にしながら、ウサギは走り出します。
 しばらく経ってからちらりと後ろを振り返ってみれば、カメはまだのろのろと三叉路のちかくを歩いていました。
 それを見て、ウサギはもう一度あははは、と笑ってしまいます。
「あー、もう、おっかしい。……本気であたしに勝てると思ってるのかしら、カメの奴。天地がひっくり返ったってあたしが負けるなんてありえないわよ。口だけは生意気なんだから。……思い知らせてやるわ♪」
 含み笑いをして、上機嫌に耳をぴこぴこと左右に揺らしながら、ウサギは家へと帰ることにしました。





 カメなんてまったく相手にならないとたかをくくったウサギは、その夜、すっかり夜遅くまで夜更かししてしまいました。
 お気に入りのマンガにおやつのにんじんチップスに、特製の果物ジュース。
 さんざん遅くまで起きて、ウサギがベッドに入ったのは、お月様が沈んで、もうそろそろ東の空が明るくなって来た頃でした。
「むにゃ……?」
 そんな有様ですから、ウサギはすっかり寝坊してしまったのです。
 じりりりり、とけたたましく鳴り響く目覚まし時計が、毛布の中でばたばたと暴れ続けています。
「なによ、もう朝……?」
 寝ぼけ眼で起き上がったウサギは、ベッドの上にさんさんとお日様が照っているのに気付いて青くなりました。
「って……あぁっ!!」
 慌てて見上げた窓の外では、もうすっかりお日様は空の上にありました。
 もう朝というよりは、お昼のほうが近いかもしれません。
「や、やばっ……!!」
 ウサギはとるものもとりあえず、シャツとスパッツに着替えると、とりあえずジュースを一杯だけ飲んで、顔も洗わずに一本杉まで駆け出しました。
 途中、森の動物たちが何人か、ウサギに挨拶をしたのですが、そんなものに答えている暇はありません。
「っはあ、はあっ、はあっ」
 息を荒くして、ほどなくスタート地点にたどりついたウサギですが、そこにはもうカメの姿はありませんでした。
 まさか、という思いと、ひょっとしたら、という期待を込めて、ウサギは一本杉のすぐ近くの木に家を持っているリスに声をかけます。
「ねえ、あなた、ちょっと!!」
「ん? なんだ、ウサギちゃんか。どしたの?」
「今朝ここでカメの奴見なかった?」
 リスはクルミを抱えながら、コクンと首を傾げて答えます。
「ああ、カメさんか。……えっとね、朝はやくに見たなぁ。なんか夜のうちからこの辺でキャンプしてて、お日様が出た頃に体操服に着替えてた。んで、なんか『じゃあ~……スタートです~……』なんつってどこかに歩いてったけど?」
「そ、そう。ありがとう」
 ひょっとしたら、のろーいカメはまだここまで来ていないのではないか――とちょっぴり期待していたウサギですが、さすがにそんなことはなかったようです。
 それどころかカメがきちんと時間を守ってスタートしていたカメに、ウサギはちょっと焦りました。
「ちょ、ちょっと寝坊しちゃったわね……で、でもいいわ。カメ相手ならこれくらいでちょうどいいハンデよ。うん」
 胸の中の不安をかき消すように、ウサギはあわてて首を振ると、スタートラインにつきます。
 丘の上まで続く道は、結構な距離があります。かなり時間は経ってしまっていますが、カメの脚ならまだ到着してはいないでしょう。けれど、それでも油断はできません。なにしろちょっとどころの寝坊ではないのですから。
「……カメ相手に本気出さなきゃいけないなんてっ……」
 文句を言いながら、ウサギは大きく跳ねるように走り出しました。





 ウサギが“そのこと”に気付いたのは、走り出してすぐのことでした。
(んぅ……っ、)
 ぴくん、と立った耳が、不規則に左右に揺れます。
 いつものような、風のようなスピードは出ていませんでした。スパッツの脚は、遠慮がちにきゅうっと寄せ合わされてなんとなく内股で、姿勢もやや前かがみ。
 地面が足を蹴るたびに、ウサギの表情はかたく強張ってゆきます。
「っはあ、はあっ、はあっ……」
 気ばかりが急いて、息まで上がってきていました。いつもはたったこれくらいのことで疲れたりなんてするわけないのですが、すでにウサギの首筋にはうっすらと汗まで浮かんでいます。
「んっ……」
 不意に、ぴくんとウサギは背筋をひきつらせ、その場に立ち止まってしまいました。
 ぎゅうっとシャツの前を足元に向けて引っ張り、爪先立ちになって道の真ん中に立ち尽くします。左右の耳もふらふらと落ち着きなく揺れ、スパッツからちょこんと飛び出した丸い尻尾は、ふわりと逆立って大きく膨らんでいました。
(や、やだ……っ、……と、トイレ……したくなってきちゃった……)
 寝坊していたウサギは、起きてすぐ家を飛び出したばっかりに、朝一番のトイレも済ませずにでてきてしまったのです。その上、起きてすぐに走り回って激しい運動をしたものですから、おなかのなかにたっぷり溜まっていたおしっこを、激しく刺激してしまったのでした。
「んんっ……ぅ…」
 右に左に、体重を預ける足を組み替えて、ウサギはふらふらと身体を揺すります。
(と、トイレ……っ。……ど、どうしよう、っ、か、かけっこの、途中なのにっ)
 そんな場合ではないというのに、ウサギの頭の中はあっというまにトイレのことでいっぱいになってしまいます。このまま我慢して走っていくのをためらわせるほどに、ぴくん、ぴくんとウサギのおなかの中でおしっこのいれものが暴れています。
 たまらずにもじもじと腰を揺すって、ウサギはきょろきょろと周りを見回しました。
 けれど、かけっこのコースにはトイレはありません。どうしてもおしっこがしたいなら、もう一度お家に戻るしかありませんでした。
「…………っ」
 ウサギは小さく唇を噛んで、遠く丘へ続く道を見つめます。いまだに先を進んでいるはずのカメの姿はありません。
 いくらなんでも、ここから家のトイレまで戻ってオシッコをしている暇はありませんでした。あれだけ寝坊した上にそんなことまでしていたら、さしものカメもとっくにゴールに着いてしまうでしょう。
 そうなれば、明日からウサギはカメに負けた、森で一番ののろまにされてしまいます。
(そんなの、絶対にごめんよっ……!!)
 ぷるぷると頭を振って、ウサギはお家のトイレへと回れ右しそうになる両脚をぐっと押さえつけます。
「……だ、だいじょうぶよ、これくらいっ。なんでもないわ!」
 自分に言い聞かせるように、ウサギは言葉にして心を奮い立たせます。
 ざわざわと落ち着かない下腹部をなだめるようにそっと手を寄せて、ごくっと口の中のつばを飲み込みました。
「そ、そうよ。急いでゴールしてからでも、じゅうぶん間に合うわよっ! な、なんたってあたし、かけっこチャンピオンなんだからっ…‥!!」
 覚悟を決めて、ウサギはこのままゴールまで走ることにしました。
 とん、とんと爪先で地面を叩き、感覚を掴むと、勢い良く地面を蹴って前に出ます。本気を出せば、すぐにカメなんか追い抜いてしまうでしょう。

 たったった、たったった、たったった……

 けれど、ウサギはどうしても思うようにスピードが出せませんでした。
 いつものような、風を裂いて森を突っ切る爽快な足取りとはまったく似ても似つかない、ふらふらと頼りない爪先立ちの歩みです。
「……ぁ、あっ、あんっ……っくうぅっ……」
 いくら集中していつものように走ろうとしても、オシッコの重みでたぷたぷと揺れるおなかがその邪魔をします。
 ウサギの足は自然にくっつき、歩幅も大きく広げることはできませんでした。
 おしりを突き出して、よたよたと左右に腰を振りながら、きゅうっきゅうっと膝を擦り付け合うのは、颯爽とは程遠い格好でした。
「ん、んっ、くぅ……はあっ、はあっ……」
 ですが、これが今のウサギの精一杯なのです。ふだんならひととびに飛び越してしまうようなちっちゃな小川の丸木橋も、内股のままのよちよち歩きでは、落っこちないように慎重に一歩一歩あるいて渡らなければなりませんでした。
「はぅんっ……」
 とん、と小さな段差を飛び降りるだけで、じんっ、びりりっ、とイケナイ感覚が背中を突き抜けて、腰が崩れ落ちそうになります。脚の付け根にじわじわと広がる感覚は、女の子としてなんとしても忌避すべきものなのです。
(うぅ、や、やっぱりトイレ……っ)
 ついさっきしたばかりの決心が、すぐに揺らぎだしてしまいました。まっすぐ走ることにも集中できず、ウサギの視線はあっちへふらふら、こっちへふらふらと、森の中にトイレを探してしまいます。
 ですが、やっぱり森の中にそうそう都合よくトイレなどあるわけがありません。
 ちらり、とウサギは木々の間に生えた背の高い草むらを振り返ります。本当にいざとなれば、あそこを使うしかないのでしょうが……ウサギは後始末のためのティッシュも持っていませんでした。
「だ、だから、そもそも今はそんなことやってる場合じゃ……っ」
 いまは一分一秒を争うかけっこ勝負の最中なのです。仮に、もしも、万が一、あの茂みでオシッコをすませることにしたとしても、それでどれくらい時間を無駄にしてしまうのでしょうか。
 昨日から溜まり続けたオシッコは、そう簡単に終わってくれそうもありません。
(あ、あくまで、もしもの話よっ、か、考えてみてるだけなんだからっ……)
 けれど、そうやってウサギが自分に言い聞かせるための声もどこか弱々しいものでした。だめ、だめと繰り返す思考とはべつに、ウサギの脚はふらふらとコースを外れ、茂みのほうに近づいてしまいます。
「ぅ……はぁああ……っ」
(トイレ、トイレしたいぃ……っ、は、はやく、はやくっ……)
 引いては押し返す尿意の波に翻弄され、ウサギの背中にはすでにじっとりと汗が浮かんでいました。シャツの前を引っ張った上から、スパッツの前を押さえて前屈みのウサギには、風のような自慢のスピードは見る影もなく、まるで歩くのに疲れてむずがる小さな女の子の歩みと変わりません。
 いつもの勝負でならほんの一瞬でたどり着けるはずのゴールの丘は、遠く遠く道の先にあって、いくら急いでいるつもりでも少しも近づいてこないようにも思えました。





「……ん? ……ぁあっ!!」
 どれくらい経ったのでしょうか。よちよちと小股で歩き続けていた(走る、とはとても言えないスピードでしたウサギは、ふと道の向こうを進む、小柄な姿を見つけます。
 そう、先を行っていたカメに、ウサギはようやく追いついたのです。
 カメはいつもの格好ではなく、重そうな甲羅も下ろして、体操服に臙脂色のジャージを着ていました。髪も後ろに縛り上げて、ハチマキまで巻いてやる気満々です。
 けれどやはりカメはカメ。低い背でとことこといっしょうけんめい前に進もうとしているのですが、どう見ても走るというよりは早歩きと言った方が正しそうでした。眼鏡を曇らせて頬を赤くしているカメを見て、ウサギは自分の様子も棚に上げ、思わずくすりと吹き出してしまいます。
(な、なによあれ……ぜんぜんトロいじゃないっ。あんなんでホントに私に勝つつもりなの、カメの奴?)
 確かに目的地の丘はもうかなり近くに見えますが、それでもまだ先です。あと少し油断していたら本当にカメのほうが先にゴールしてしまったかもしれませんが、追いつきさえすればこっちのものでした。
 ウサギは急いでゆっくりと進むカメに並び、声をかけました。
「なによ、ま、まだゴールしてなかったの?」
「あら~……ウサギさん~……。追いつかれちゃいました~……」
 折角のリードを追いつかれたというのに、カメはまるで気にしていないようでした。くやしがるでもなく、黙々と歩みを止めません。拍子抜けしたウサギはあわててか目の前に回り込みます。
「ざ、残念だったわね。ちょっとハンデあげようと思ったのに、ぜんぜんダメじゃないっ」
「えぇ~……そうだったんですかぁ~……? ウサギさん~……遅刻じゃぁ~……なかったんですね~……」
「あ、当ったり前じゃないっ」
 とつぜん図星を指され、思わず嘘をついてまで意地を張ってしまうウサギでした。あれだけ馬鹿にしていたカメの前でみっともない姿をさらすわけにはいきません。本当はいますぐに脚をクロスさせ、腰をクネらせてしまいたいのをぐっとこらえ、胸を張って見下ろすようにカメに言います。
「な、なにやってんのよあんたこそ。そんなトロトロ走って。やる気あるのかしら?」
「はい~……いっしょうけんめいですよぉ~~……」
「ふ、ふんっ。ず、ずっとそうやってのろのろ歩いてればいいのよっ。勝つのはあたしなんだからねっ」
「まだ~……わかりませんよぉ~……? 勝負は~……最後の最後まで~……気を抜いちゃ~……ダメですからぁ~……」
「っ、か、勝手にしなさいよねっ。さ、先行くからっ!!」
 どうもまったく話になりません。ウサギはそう言い捨てると、全速力でカメを追い抜きました。ひとつさきのカーブを曲がって、さらにその先の曲がり角まで一気に走り抜けます。
 そのまま丘のふもとまでまっすぐに駆け抜け、坂を上りきってしまえばそこでウサギの勝ちでしたが――、
「はぅぅうぅ……っ!!」
 とりつくろった威勢のよさもそこまででした。急に動いたことでポンプのようにおしっこがおなかの中で圧迫され、ウサギに襲い掛かります。
 そうなると、もう脚は走る役には立ちません。こみ上げてくるおしっこを塞き止めるのには、ぎゅうっと脚を交差させて、腿をきつく閉じ合わせるしかないのです。
 我慢に精一杯になったウサギの脚は、ぴたりと地面に張り付いたように止まってしまいました。
(ぁ、あっ、だめ、も、漏れちゃ……うっ!!)
 じわぁ、とスパッツの内側でおしっこの出口がふくらみ、ちょうど脚の付け根の中心の部分に、ぷくりと熱い感触が染み出していきます。布地をほんの少しだけ膨らませた先走りが、紺色のスパッツの股間をさらに濃い色合いに染めていきます。
(っ、あ、や、ぁ……ウソっ、で、出ちゃ……たっ!?)
 ありえない事態に、ウサギは必死になっておしっこを食い止めようとします。ぎゅうっぎゅうっと引き伸ばされたシャツの上から手のひらがスパッツの脚の間に押し込まれ、きつく張りつめた脚の付け根をこねまわします。
 けれど、効果がないどころかじわじわとスパッツの染みは広がり続け、おしりのほう、丸い尻尾のすぐしたにまでじゅわぁあっと、熱い感触は広がっていきました。
「あ、あっ、ウソ……ち、ちびっちゃった……?」
 緩んでしまった出口から漏れ出すおしっこを、たっぷりとスパッツに染み込ませてしまったことを知り、ウサギは真っ赤になってしまいました。左右の耳は力なく倒れ、へにゃん、と意気地のない狼のように髪にしたがって垂れ落ちていきます。ついっと持ち上げられたおしりの上、尻尾はまるで逆立つようにぶわぁっと毛先を広げていました。
「あんっ、あ、あぅぅっ……」
 なおも続く強烈なおしっこの波に、ウサギは身もだえして足踏みを繰り返します。自慢の俊足を、じわじわと漏れ続けるおしっこをせきとめることだけに使って、ウサギは道の真ん中で立ち尽くしてしまいます。
 しかも、困ったことにかけっこ自慢のウサギの脚は、おしっこの我慢にはあまり役にたたないのです。押さえても押さえても、ウサギのスパッツの内側にはじわじわと湿り気が広がってゆくのでした。
「あ、あぅ、あぅんっ……ま、またぁっ……」
(だ、だめっまた出ちゃうっ……!? あ、いや、いやぁ……!!)
 もはやウサギは目の前のビッグウェーブを乗り切るので精いっぱい。頭にはかけっこ勝負のことも、ゴールのことなど残っていませんでした。
 その時です。
「ウサギさん~……負けないですよぉ~……」
 後ろから響いてきたカメの声に、ウサギは飛び上らんばかりに(いえ、本当に飛びあがっていたら全部出てしまっていたでしょうが)驚きました。ウサギがもたもたしている間に、カメが追いついてきていたのです。
 ウサギは大慌てで走り出そうとしましたが、足が言うことをききません。それどころか、がくがくと震える膝は勝手に曲がり、そのまま道の真ん中にしゃがみ込んでしまいそうになるのでした。
(っ、や、やだあ、こ、こんなの見られたらっ……は、はやくっ、隠れなきゃっ……!!)
 颯爽とカメを抜き去って行った自分が、こんなところでもたもたと立ち止まっておトイレのポーズなんかをしていたら、それこそカメに何を言われたものかわかったものではありません。
 そもそも、そんな格好をしてしまえばそのままおしっこが出てしまいそうなのです。
 ウサギはぎゅうっとスパッツの股間を抑え込んだガニ股のまま、道の脇の木陰へと向かいます。





 我慢を続けたままのひょこひょこ歩きで不格好ながら、どうにかカメが曲がり角から姿を見せる前に、ウサギは木陰に隠れることができました。息を殺し、じっとしてカメが通り過ぎるのを待ちます。
「もしもし~……? ウサギさん~……?」
 あらわれたカメがきょろきょろとあたりを見回します。
 けれど、物音のしていたはずの道にはウサギの姿がないので、カメは首をひねるばかりでした。
「あや~……もう見えません~……。ウサギさんはぁ~……ほんとうに~……速いんですねぇ~……」
 まさか、そのウサギがいま自分のすぐ隣で声をひそめ、ひっしに漏れそうなおしっこと闘っているなんて思いもしていないのでしょう。カメはのろのろと、けれど立ち止まることはせずに、道を歩いてゆきます。
「でも~……ワタシも~……負けませんよぉ~……。ふぁいと~……お~……!」
 気の抜ける掛け声とともに、カメはウサギの隠れている木のすぐそばを通り掛かります。カメもいっしょうけんめい急いでいるのでしょうが、いかんせんあまりにもゆっくりで、ウサギはじれったくてしかたがありません。
 もっとも、そんなカメに追いつかれてしまうほど、いまのウサギは大変なことになってしまっているのでしたが。
(っはあ、はあっ、んもぅっ!! は、早く行きなさいよぉっ!! ほ、ホントにとろくさいんだからっ、か、カメの奴っ!!)
 その間も、ウサギは身動き一つとれませんでした。見つかってしまうわけにはいかないのです。足をふみならしての我慢も、出てしまいそうになる悲鳴も喘ぎ声も飲み込んで、必死にぱんぱんのおなかともじつく腰をおさえこんでいました。
 耳を必死にそばだてて、カメの遠ざかる足音に耳をすませます。
「ふぅ~……はぁ~……。やっぱり~……大変ですねぇ~……かけっこは~……」
(お、お願いっ、はやく、はやくしてぇ……!!)
 ウサギはもはや拷問されているのに近い気分でした。体育座りのかっこうでスパッツの上に重ね当てられた両手は、いまにも力の抜けそうになる水門を精一杯抑え込み、ぎゅ、ぎゅっと断続的に力を込め続けます。
 けれど、その手のひらの中には、布地の内側から抑えきれない熱いしずくがじゅわぁ、しゅるるっと染み出してくるのです。
 恥ずかしさに涙を浮かべながら、ウサギはじっとじっと息をひそめて耐え続けました。
「んぅ、ふっ、ふぅっ、はあっ……ふぁ、あぅうんっ……!!」
 ようやくカメの足音が遠ざかっていったところで、ウサギは息をつきます。緊張がわずかにほぐれたせいで、またスパッツにじわぁっと新しいおしっこが吹き出してしまいました。黒い染みはとうとうふわふわのしっぽの根元まで広がり、ウサギのスパッツは遠目に見てもわかるほど、足の内側だけが別の色合いに変わってしまっています。
 ますます顔を赤くして、ウサギは息を荒げ、必死になっておしっこの出口を絞めつけました。
(だ、だめ、もうだめ……っ!!)
 けれどそれももう限界です。ギュッと目をつぶり、ウサギは唇をかみしめます。とてもではありませんが、このままトイレを我慢し続けながら、かけっこ勝負はできそうにありません。
 あたりを見回し、ウサギは近くにある大きな樫の木の根元に生えた、背の高い茂みに目をつけます。ちょうど、座り込んでしまえば周りの人の目をほどよくさえぎれそうな、具合のよい場所でした。
(っ、あ、あそこで、おしっこっ、出しちゃおうっ……)
 羞恥心と女の子のプライドを、迫りくるオモラシの危機が圧倒します。
 シャツをまくり、スパッツに手をかけながら、ウサギは膝を擦り合わせたままのよちよち歩きで、茂みの奥に駆け込もうとしました。
「っふ、…あっあ、…くぅうぅうっ…」
 手のひらの間から漏れるしずくが、スパッツを超えてウサギの足につうっと滴り落ちます。引けた腰のまま、つま先立ちの内股で、途中3度ほど立ち止まりながらも、ウサギはどうにか最後の一線だけは守り、茂みにたどり着きます。 
(あ、あとちょっとっ……!! あ、あと、五秒、五秒だけっ……)
 服の上からでもすでにおしっこの準備を万端に整えてしまった下腹部をさすり、もぢもぢとお尻を振りながら、ウサギは茂みのなかに踏み入りました。
 脚にびったりと張り付くスパッツを脱ごうと、ウサギがシャツをまくり、中腰のままスパッツに手をかけたときでした。
「……あれぇ? ウサギさん、どうしたのこんなところでっ」
「え……?」
 ぐいっと後ろにおしりを突き出したウサギの眼の前に、数人の行列がならんでいました。その中の一人、買い物かごを下げたタヌキが、目をまん丸くして声を上げます。
 茂みの草の高さは、足元は隠してくれても顔までは届きません。草むらの中でしゃがみこんでも、顔は丸出しなのです。
 ウサギはちょうど、ふわふわのしっぽまでぐっしょりとおしっこで濡らしてしまって、いままさにスパッツを下げたところまで、丸見えの姿勢なのでした。
「ひょっとして、ウサギさん……トイレ?」
 あまりにことに硬直してしまうウサギの眼の前で、ぽん、と大きな音を立てて手をたたいたタヌキが、そう言います。
「っっ――!?」
 ウサギはあわててがばあっ、と身を起こし、膝まで下がりかけていたスパッツを腰の上に引っ張り上げます。急激な動作でじゅわあっ、とまた足の付け根で水音が響きますが、それどころではありません。
 垂れた耳の先まで真っ赤になりながら、凍りついてしまった舌を動かして、ウサギはかろうじて弁解の言葉を絞りだそうとしました。
「ち、違うのっ、そ、そのっ、これはっ――」
 間に合わなかった。我慢できなかった。そう言おうとしたウサギでしたが、それより先に割り込んでくる声があります。
「ウサギさん~……? あのう~……ウサギさんも~……おんなのこなんですからぁ~……そんなところで~……おトイレなんて~…しちゃ~……だめだと思います~……」
 なんと、行列の一番後ろにはカメの姿があるではありませんか。ウサギは今度こそ、完全に言葉を失ってしまいました。
「お急ぎの途中でも~……ちゃんと~……お手洗いを~……使ったほうがぁ~……いいと思いますよぉ~……?」
 そう言うと、カメは進む行列の後に続きながら、真上の木の幹を指さします。
 そこには、真新しい大きな文字で『公衆トイレ』と書いてあるのでした。あんなに行きたかった場所がこんなところにあるなんて、ウサギにはまったくの初耳です。
 頭が真っ白になってしまったウサギの前で、ざあーっ、と流れる水の音が響きます。
 先に個室に入っていたタヌキが、ドアを開けて手を拭きながら外に出てきました。
「ふぅ~……さっぱりしたぁ♪」
 買い物かごを抱えたタヌキは、次の順番を待つカメを振り向いて、首をかしげます。
「ねえカメさん。なんか見慣れないかっこしてるけど、ひょっとしてウサギさんとなにかしてたの?」
「あぁ~……タヌキさん~……じつはですねぇ~……いま、ワタシはぁ~……ウサギさんとぉ~……かけっこ勝負の~……最中なんですよぉ~……」
「ええっ!? それ、ほんとう!?」
「はい~……勝ったほうがぁ~……負けたほうの~……いうことを聞くって~……勝負なんですよぉ~……」
 のんびりと答えるカメに、タヌキはぱあっと顔を輝かせ、またぽぉんっ、と大きく手を叩きました。
「うわぁ……こりゃすごいね、ビッグニュースだっ!! こりゃあおつかいなんてしてる場合じゃないねっ!! すぐにみんなに知らせなきゃっ」
 言うが早いか、タヌキは買い物かごを放り出し、風のような勢いで去っていってしまいました。取り残されたウサギは、呆然とその背中を見送ることしかできません。
 そうしている間に、トイレの順番待ちの列はまた一つ進んでゆきます。
「じゃあ~……ウサギさん~……お先にしつれいします~……」
 はっ、と気づいた時にはもう遅かったのです。
 ウサギが我に帰った時には、もうカメは空いた個室の中に入ってしまったところでした。
(えっ、あ、あっ、や、ま)
「ちょ、ちょっと待ってっ、待ってよぉっ!!」
 取り乱したウサギは、行列を突き飛ばしてカメの入ったトイレへと駆け寄ります。一歩前に進むごとに足元にはじょろぉ、じじょじょじょぉ、とおしっこが漏れ始めていました。
 汚れた手で、ウサギは激しくドアをノックします。
「や、やだぁ、変わってっ、あ、あたしもトイレ、トイレぇ!! も、漏れちゃうのっ、もう我慢できないのぉっ!!! はぅうっ……!!」
 ドアにしがみつくようにして、ウサギがさけぶと、堰を切ったようにスパッツの内側からあふれ出したおしっこが深く色を変えた紺色の布地を押し上げて、ばちゃばちゃばちゃっと地面に飛び散ります。たちまちウサギの足元には薄黄色の水たまりが広がりはじめました。
「うぁ、あっ、あ、お願いっ、おねがいはやくぅ!! トイレ、トイレっ、おしっこ出ちゃう!! もう出ちゃうぅ!!!」
「ええとぉ~……でもぉ~……ワタシのほうがぁ~……先に並びましたよぉ~……?」
「だ、だからそうじゃなくてぇっ……!!」
「……ワタシもぉ~……ずっとぉ~……ガマンしてましたからぁ~……ちょっと~……すぐには無理です~……」
 もうウサギは、一歩だって歩けませんでした。
 自慢の足も、手も、オシッコの出口を締めつける以外のなにもできません。すっかり垂れてしまった耳が、羞恥にふるふると震えています。細い腰と背中はびくびくと痙攣し、腰奥に溶けて広がるオモラシの開放感に打ちふるえます。
「あ、あたしのが先なんだからぁっ……お、お願いっ、お、おしっこ……先に、さきにおしっこさせてぇっ……!!」
 どんどんと激しいノックが、涙混じりの嗚咽にかき消されて次第に弱まり、同時にじじゅじゅぅ、じょろぉぉお……という水音はますます激しいものになっていました。片手だけで抑えたスパッツからあふれたおしっこは、びしょぬれになって見る影もない丸い尻尾からもぽたぽたと垂れ落ち、トイレの前に大きくひろがってゆきました。
 するとその時ようやく、ドアの奥から、ちょろ、ちょろろろぉ、というカメのおしっこの音がはじまります。
「すみません~……もうすこし~……かかります~……」
 カメのおしっこといったら、まったくもう嫌になるくらい長ったらしいものでした。いつまでたっても全く終わる気配のないカメのトイレに、焦らされ続けたウサギのガマンはもう限界でした。
「っ馬鹿ぁ、は、はやくしなさいよぉ、で、出ちゃう、おしっこ、ぜんぶ出ちゃうじゃないっ……!! ああぅっ、くぅぅ……!!」
 ウサギがとうとうありったけのおしっこを出してしまってからも、なおカメのトイレは延々と続きました。
 ドアの前でおしっこの湖にへたり込み、ぐすぐすと泣いているウサギに、ようやくドアの向こうから顔をのぞかせたカメが言います。
「あのぉ~……ウサギさん~……いくらかけっこ勝負だからって~……おしっこは~……ちゃんと~……お手洗いにいきましょうねぇ~……?」
「ぅぁっ、ひっく、ぐすっ……」
 馬鹿にしていたカメにそんなことまで言われてしまって、ウサギは、とうとう動けなくなってしまいます。
 その頃、タヌキに勝負の話を聞いてようやく駆けつけてきた動物たちは、いったいゴールでもないところで二人が何を話しているのだろうと、しきりに首をひねるばかりでした。




 ……結局、かけっこ勝負は途中でどこかにいってしまいましたが。
 とりあえず、めでたし。めでたし。


 (初出:おもらし特区 2009.07.03)

[ 2009/08/30 16:06 ] WetMarchen | トラックバック(-) | コメント(-)

夏祭りのお話・後編 

 現在、七時五十五分。
 トイレに直行した二人だが、千佳には大変な誤算があった。
 今日のお祭りの人出はいつもの比ではない。普段はガラガラの公衆トイレは、その入り口から伸びる長蛇の列で封鎖されていた。もともとそんなに大人数をさばけるような場所ではないので、まさに満員満席大人気。おそらくは境内のどの屋台よりも大人気だろう。
 特に婦人用のトイレには、50m近い大行列ができている。その全員がわずか4室のトイレの順番を待っているのだった。
(うぁ……す、すごい人っ……は、はやくトイレ行きたいのに……っ)
 待望のトイレの前で繰り広げられる目の前の光景が信じられず、千佳は呻いてしまう。
 すでに我慢はかなり危険な状態にある。いつものズボンとは違うせいか、荷物でいっぱいで手が自由にならないせいか、剥き出しになっている脚が妙に頼りない。このままこの行列を待ち続けるのはなかなかに厳しそうだった。
 無論ながら、この混雑を予想して境内外には臨時の仮設トイレも設けられていたのだが、あいにくと千佳はそちらの存在には気付けていなかった。加えて仮に向かったとしても、行列の状況は大差ないのだったが。
「……あれ?」
 ふいに、手のひらが軽いことに気付いて千佳は回りを見まわした。
 一緒に来たはずの郁乃の姿が見えない。さっきまで手を繋いでいたはずなのに、その感触もいつのまにか消えてしまっていた。
「え? 郁乃ちゃん? どこー?」
 声をかけても、大混雑の人ごみの中ではなかなか見つかりそうになかった。そうこうしているうちに尿意の波がじわっとこみ上げてきて、千佳はたまらず前かがみになってしまう。
(あぅっ……)
 トイレを前にして、きゅぅん、と膀胱が反応する。恥骨上のダムが決壊の危険性を訴え、即刻放水の許可を求めてくる。千佳は呻きながら両脚を交差させ、それを却下した。
 このままじっとしている余裕はあまり残されてはいないようだった。まして、並ぶのを中断して友人を探し回っている余裕はもっとない。気になりつつも、千佳はよちよちと列の最後尾に並ぶことにした。
(うぅ……だいじょうぶ……ガマンガマン……)
 もじもじと腰を揺すりながら、千佳は列の最後尾に走り寄った。
 不安定な下腹部をそっと押さえ、じりじりと焦りながら少しずつ進む列を待つ。
 並んでいる人たちの様子は千差万別で、千佳よりも小さな女の子もいればずっと年上のお姉さんもいる。けれど、みんなどこかそわそわと落ち着きなく、進む順番を待っていた。
 なかにはずっごく綺麗なお姉さんもいて、この人たちも全員、千佳と同じようにトイレがしたいのだと思うと、なんとなく不思議な気分にもなる。
(あの子も、ジュース飲み過ぎちゃったのかな……)
 待ちきれないのかくねくねとお尻を抑えながら順番を待っている、眼鏡のお姉さんを見て、千佳はそんなことを考えた。
 そんなに狭いトイレではないはずだが、さすがに多勢が並んでいるせいか列の進みはゆっくりだ。切羽詰まった様子の先頭の人と入れ替わりに、すっきりした顔のお姉さんがトイレの入り口から出てくる。千佳もしばらくガマンしていれば、あんなふうにすっきりトイレを済ませてでてこれるだろう。
(あ、あとちょっと……)
 頼りない足元を寄せ合って荷物を片手に集め、空いている手でぎゅうっと浴衣の裾をつかむ。本当は手で思い切り前を押さえてしまいたいのだが、こうも人の多いなかで、小さな子のようにガマンの仕草をすることには抵抗があった。
 しかし、目の前でお母さんに連れられた幼稚園くらいの子がぴょんぴょん飛び跳ねたり、その場で大きく足踏みしたり、ぐいぐいと身体をねじっているのを見ていると、千佳もその尿意に感染してしまったような気分にもなってくる。
 小さな子と同じように『おしっこ~でちゃう~!!』の足踏みをしそうになる、聞き分けのない浴衣の太腿をぎゅっとつねり上げた。
(が、がまんしなきゃっ、も、もうすぐおしっこ……できるんだから……っ)
 じりじりと高まり続ける尿意と、その応援に向かいそうになる手のひらを、意志の力で押さえ込み、短くなった列をまた一歩前へ。重い荷物を握る指にも、自然と力がこもってしまう。
 幸いなことに、一度は本気で最悪のオモラシという事態を危惧して不安になりかけたものの、それ以上に強烈な尿意の波はやってこなかった。さしたる問題もなく列は進み、千佳の前にはあと数名を残すのみとなる。
 順番待ちの列の中、千佳の位置はもう少しでトイレの入り口にさしかかる所まで来ていた。
(これなら、だいじょうぶかも……)
 あとほんの数人でトイレの中に入れるし、そのあとはすぐに千佳の番が回ってくるだろう。それでおなかの中のダムも放水を許可できるし、千佳を苦しめ続けてきたおしっこともサヨナラだ。
 ……が。
 予想外の障害は、思わぬ場所からやってきた。
 さらにもう一人、短くなった列を前に詰めた時、トイレの入り口の壁に張られた張り紙の赤文字が千佳の目に飛び込んでくる。

『このトイレには、防犯上の問題から
 トイレットペーパーを備え付けておりません。
 こちらでお買い求めください』


「え……?」
 その文面の意味がわからず、千佳は目を丸くしてしまう。
 張り紙のすぐ隣には、細長い自動販売機があった。ジュースのそれと同じように、お金を入れるところと小さなボタンが二つ。その上には、ポケットティッシュのようなものがサンプルとして並んでいる。
 千佳にはその意味が良く理解できなかった。
(え、え? ちょっと待って……どういうこと!?)
 まばたきをして、千佳はもう一度その張り紙を見直す。

 ――こちらでお買い求めください。

(これって……と、トイレットペーパーがないってこと……?!)
 そんなわけがないと千佳は首を振る。千佳の常識では、どんなトイレにだって、普通必ずトイレットペーパーがあるものだ。だってそれが無ければ、おしっこを済ませた後に、あそこを拭いて綺麗にすることができない。そんなトイレでは、おしっこができなくなってしまう。
 トイレなのにおしっこができないなんて、ありえない。
 まさか違うよね、と思い込もうとした千佳の前で、少し先に並んでいたお姉さんが前に進み出た。お財布から出した百円玉を2枚、自販機に入れてボタンを押す。
(う、嘘っ!!)
 千佳は思わず悲鳴をあげそうになった。しかし、かたん、と落ちてきた包みを手に、お姉さんはやがて空いた個室の中に入ってゆく。
 同時、すぐに聞こえ始めた音消しの水の音に、千佳は今後こそ戦慄する。
(う、ウソだぁ……違うよね。だって、うん、そんなことあるわけないもんっ……)
 首を振るが、目の前の自動販売機も、張り紙も消えてはくれなかった。
 次に並んでいた、千佳よりも少し年上の眼鏡の女の子も、もじもじと脚を擦り合わせながら同じように自販機にお金を入れて、小さなパッケージを買おうとしている。
(そ、そんなぁ……な、なんで!? み、みんなどうして、……おかしいよこんなの、どうしてこんなイジワルなのっ!? お、おしっこするのに、お金かかるの……!?)
 さっき、千佳はかき氷屋さんで300円のかき氷を買った。姉にもらった分の200円と合わせても、おこづかいは320円しかなかった。そこから300円を引いて、千佳のお財布のなかには、20円しか残っていない。
 20円じゃ、自動販売機のトイレットペーパーは買えるわけがない。
 もしお店の人がいるなら、お願いしておまけしてもらったり、たとえば20円分だけ買うこともできるかもしれないが、ここにあるのは自動販売機だ。そんなことは絶対にできない。
 列がまた進む。もうすぐ千佳の番が回ってくるだろう。けれど、千佳にはトイレットペーパーがない。
 だから、順番が回ってきて個室に入れても、千佳は、オシッコが、できない。
「ぁ……っ」
 困惑の渦中にある千佳の前で、また一つ個室が開き、列の先頭の小さな女の子が、お母さんに見送られて早足で個室に駆け込んでゆく。あんな小さな子でも千佳とは違って、ちゃんとおしっこをする準備ができているのだ。
 それなのに、千佳は――
(な、なんで……おかしいわよ、なんで……!? う、嘘に決まって、こんなの……っ!!)
 ついさっきまで少しでも一人でもいいから早く先に進んでほしい、と思っていたはずの順番待ちの行列が、得体のしれない恐ろしいものに変貌して、千佳に迫ってくる。
 このまま、順番が回ってきたらどうすればいいのだろう。
 個室に入っても、下着を下ろしても、しゃがみ込んで――それから? それから、どうすればいいのだろう?
 おしっこができないのに、そこで何をすればいいのか。混乱に陥ったまま、千佳はよろよろと、次の順番へ押し出されてゆく。とうとう千佳が列の先頭だ。困惑のまま立ち尽くす千佳の前で――あっさりと、同時に二つ、個室が開く。
(あ、あっ、あ……ど、どうしよう……っ!?)
 混乱する頭を整理する暇なんて、なんにもなかった。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。おしっこしたい、おしっこできない、ぐるぐると堂々巡りを続ける千佳は、ぽかりとあいた個室のドアと並ぶ行列を交互に見、言葉を失う。
「え……あ」
「ちょっと、開いたわよ? 入らないの?」
 千佳の後ろにいたオバさんが、不機嫌そうに言う。計ったようにたっぷりと水分を吸って膨らんだ下腹部が、憧れのトイレを前に『きゅんっ』と切なく疼いた。
 脚の付け根にぷくっ、と膨らんだ熱い感覚が、そのまま腿の内側につうっと噴出しそうに震えて――
(だ、だめっ、でちゃう、出ちゃうっっ!!)
「っ、っは、入りますっ」
 ほとんど反射的に、千佳は開いた個室の中に飛び込んだ。後ろ手に鍵をかけ、狭い個室の中にやや汚れた和式便器と二人きりになって、千佳はぎゅうっと荷物を詰め込んだトートバッグを握り締めた。
(ぁ、あっ、あ、あっ)
 ようやく待ちかねたトイレを前に、千佳の身体は心を置いてきぼりにして、どんどん勝手におしっこの準備を始めてしまう。しかし――
「ほ。……ホントにないっ……そんな、なんでよぉ……!?」
 壁に取り付けられた銀色のロールホルダには、トイレットペーパーどころかその芯すらも掛かっていない。ひょっとしたらという一縷の望みすら無残に打ち砕かれて、千佳の目の前は絶望に暗く沈む。
 間違いなく、このトイレには紙がないのだ。その事実を突きつけられ、千佳は足元が崩れ去っていきそうになる錯覚すら覚える。
(と、トイレ……トイレなのに、おしっこしたいのに、おしっこできないなんて……!! む、無茶苦茶じゃないっ……)
 焦る下半身はタイルの上でサンダルをきゅきゅっと鳴らし、浴衣の裾を乱し、足踏みを繰り返す。必死になって脚の奥に『タイム』を訴え、ぎゅうっとトートバッグの上からあそこを押さえ込む千佳だが――
「あ」
 ぐらり、と傾きかけた千佳の脳裏に、天啓のように稲妻が閃いたのはその時だ。
(……そ、そうだ、そうだっ!! てぃ、ティッシュ……!!)
 お母さんにうるさく言われて、トートバッグの中に押し込んでおいたポケットティッシュのことを思い出し、千佳は慌ててその中身に手を突っ込む。身をよじり、腰をねじりながら、脚を踏み鳴らして――
「あ、あったぁ……っ!!」
 ほどなく、探った指に小さなビニールの感触。
 取り出してみれば問題なく中身も確認できた。折りたたまれた白く柔らかな紙。大切なところを処理するのにも申し分のないそれは、まさにいま、千佳に与えられた唯一の救いの手だった。
 普段ほとんど意識したこともないアイテムが、いまはまるで宝物のようにすら感じられる。
「よかったぁ……」
 これでだいじょうぶ。これでトイレできる。
 安堵とともに、千佳はほっと息をつく間もなく、ぎっしりと中身の詰まったトートバッグを荷物掛けに掛け、ちょっとためらってから、浴衣をたくし上げて下着に手を掛ける。
「んぅ……」
 あまり綺麗なトイレではないが、もう悩むことなどない。
(はー……ほんと、一時はどうなるかと思った、け、ど……)
 だが。
 個室の壁にも小さな注意書きがあることに気付いて、千佳は下着を膝上まで下ろしかけた中腰の姿勢のまま、今度こそ言葉を失ってしまった。

『トイレには決してティッシュ等を流さないでください。
 故障の原因となります。
 必ず、専用の用紙をご使用ください』


「そ、そんなぁ……!!」
 あまりにも理不尽に、幾重にも重ねられた警告が、千佳の尿意を束縛する。
 もはや、それは千佳にとっての死刑宣告に等しい。
 とどめとばかりに記されたその注意書きは、見事なコンビネーションで、このトイレで千佳がおしっこすることを完璧に禁じていた。
(あ、あっ、あっ)
 すぐ真下、完全に準備の整った状況のトイレを前に、熱い衝動がぐいぐいと身体の奥からこみ上げてくる。けれど、ここは駄目だ。千佳にとって、おしっこは許可されていない場所であり、トイレでは、おしっこをしてもいい場所ではない。
 まったく予想もしていなかった事態に、千佳はただ、呆然と無力に腰を揺さぶるしかなかった。





 8時20分。
 空っぽに近いお財布を握り締め、ふらふらと列を離れてトイレの近くを右往左往していた千佳は、ほどなくして郁乃と合流する。
「あ、い、郁乃ちゃん」
「あはは、千佳ちゃん。トイレなんかすっごい並んでたね……」
「う、うん」
「もうちょっとで、オモラシしちゃうところだったよぉ」
 笑いながら言う郁乃に、引きつった表情で答える千佳。
 もうちょっと、ではない。千佳は今まさにそのオモラシの危機と戦っているのだ。千佳はあのまま、格好のトイレタイムをふいにして、おしっこを済ませることなく水だけを流し、トイレを後にした。
「ねえ、千佳ちゃん、わたしあれやりたいんだけど、いいかな?」
「え。あ、う、うんっ」
 不意に訪ねられ、思わず頷いてしまう千佳。郁乃はヨーヨーすくいを指差して、千佳をそこへと引っ張ってゆく。
(あ……っ、や、ぁ…)
 せっかくたどり付き、一度は個室にまで入ったトイレからまた遠く引き離されることに、千佳は激しい抵抗すら覚えてしまう。しかし、まさか、笑顔の友人にトイレに入れていないとは言い出せなかった。
(郁乃ちゃんも、ちゃんと、おしっこしてきてるのに……っ)
 なにしろ、同じようにトイレに行ったはずの郁乃は、ちゃんとトイレに行ってきている様子なのだ。軽い足取りの郁乃を見て、千佳は顔を紅くする。
 郁乃はちゃんとお金を出してトイレットペーパーを買って、トイレの中でおしっこをすることができた、『きちんとした女の子』なのだ。
(や、やっぱり、あたしだけなんだ……おしっこ、できなかったの……)
 あのトイレに並んでいた大勢の行列の中で、自分だけがちゃんとおしっこを済ませられなかった――そんな猛烈な劣等感とそれによる羞恥が、千佳の言葉を封じ、責め苛んでいた。
 百恵にあんなに念入りに無駄使いしないようにと言われたのに、千佳はそれを守らなかった。その結果、トイレに入るお金も持っておらず、普通の女の子ならちゃんとできるはずのトイレットペーパーを買うこともできなくて、とうとうおしっこをすることもできなかった。
 恥じ入る千佳のおなかで、ますます尿意は激しく膨れ上がる。もう手で押さえていないと、いつオモラシが始まってもおかしくないようにさえ思えた。
 ズボンなら、股の布地をぎゅっと引き上げ、足の間に食い込ませて片手だけでもうまく圧迫することができるが、ひらひらの浴衣ではうまくいかず、下着の頼りない感覚と、内腿の頼りない感覚が引き立つばかりで、かえってそこの余裕のなさを意識してしまう。
「ぁ……っ」
 切羽詰った喘ぎ声が、千佳の唇からこぼれる。
 無理して歩いているために、動いて圧迫された分がそのままダムから溢れ出してしまいそうだ。じわ、と脚の間に熱い雫が広がるような感触に、千佳はきつく唇を噛み締めた。
 とにかく食べてしまおう、と無理をして飲み込んだかき氷が致命的だったのだ。身体が冷えてしまい、さらに次々と全身を巡って集まるおしっこが、際限なくダムの水位を上昇させてゆく。決壊の危険を知らせる警報はさっきから鳴りっぱなしで、ぎゅうぎゅうと脚の付け根に押し付けられ、足の間に挟まれた手のひらの奥では、浴衣に小さく染みが広がりだしていた。
(だ、だめ、出ちゃう……っ、おしっこ出ちゃうっ……!!)
 きゅんきゅんと収縮する膀胱が、激しく尿意を訴える。
 我慢で精一杯の千佳は、もうすっかり余裕がなくなっていて、郁乃が不自然に饒舌なことや、これまで興味のそぶりもなかったヨーヨーすくいに急いでいることへの疑問を感じることはなかった。
 大混雑のトイレを見た途端、郁乃が突然姿を消した理由も、先に入っていたはずの郁乃が、トイレの中に見つからなかったことも、千佳は不思議には思わなかった。
 だから、実はもう限界だった郁乃が、とても順番待ちなどできないと諦め、境内の裏手にある茂みでこっそりおしっこを済ませていたことも、それに気付かれまいと無理に明るく振る舞っていることも、知る由もない。
「あれ、千佳ちゃん、どうかしたの?」
「う、ううんっ、なんでもないっ」
 戦果のヨーヨーを、あまり上手ではない手つきでぱしぱしと揺らす郁乃から、千佳は慌てて浴衣の前を離し、目をそらす。すると、じっとしていることができない脚がはっきりとおしっこ我慢のダンスを足踏みを始める。
 いっぱいに水を詰めこんでぱちゃぱちゃと揺れる風船は、ちょうど今の千佳のおなかの中のオシッコのタンクを象徴しているかのようだった。
(ど、どうしよう、もれちゃうっ……、と、トイレ……っ)
 ひり付くくらいの欲求が、千佳の震える下半身を襲う。
 もし、いまこの神社の神様がお願いを叶えてくれるというなら、間違いなく一番熱心にお祈りしているのは千佳に違いない。心の中で『おしっこさせてください』を必死に繰り返しながら、千佳は脚をモジつかせ、くねらせながらふらふらと郁乃の後を追う。
 その一方、郁乃は郁乃で千佳に気付かれないようにふるまうので精一杯で、普段ならすぐに気付くだろう、千佳の様子がおかしいことにまで気が回っていない。
「どうする、千佳ちゃん?」
「そ、そうだね……」
 空回りのまま続く意味のない会話。けれど、それのもたらす決定的な違いは、茂みに駆け込んですっきりしてきた郁乃と、今なお我慢の真っ最中の千佳の間に如実に現れていた。
 千佳の片手はもう浴衣の上からぐいぐいと足の付け根を握りしめている。顔色も蒼白で、買い込んだお土産もいまにも取り落としてしまいそうだ。
 うまくうごかない頭をフル回転させて、千佳はなんとかいますぐにおしっこを済ますための方策を探す。
(い、言わなきゃ……おしっこしたいって、トイレ行きたいって……!! で、でも、えっと、さっきのトイレじゃ、お、お金なくちゃトイレットペーパー買えないしっ、お姉ちゃんもういないから、い、郁乃ちゃんにお願いして、お金借りて……あ、で、でもっ、そうなったら、なんでさっきおしっこしてこなかったのって、言われちゃう……そ、そうだ!! おなか壊しちゃったって言って、もう一回……)
 ちら、と後ろを振り向く。
 混雑のずうっと向こうで、さっきよりも長く伸びた行列が、千佳の視界に映った。
(む、無理!! あんなのもう一回並ぶなんて、絶対間に合わなくなっちゃう!! と、途中でおしっこはじまっちゃうっ……!! そんなの嫌ぁ……!!)
 トイレまで間に合わない、とはっきりと自覚をしてしまったことで、千佳の我慢が大きく緩む。根負けしたようにじゅわぁ、とイケナイ感触が内腿の奥に広がってゆく。もはや錯覚ではない、本当の崩壊へのカウントダウンが始まっていた。
「っ……!!」
(と、トイレ、といれ、おしっこっ……ほ、他にトイレ、おしっこするとこ、と、トイレ、おしっこ、おしっこっ、おしっこぉ!!)
「ね、ねえ郁乃ちゃんっ、あ、あたし、そろそろ帰らなきゃっ」
「え?」
 焦るあまりに唐突にそんなことを口走った千佳に、郁乃はぱちくりと目をまばたかせる。まだまだ遊ぶよ、と言っていた親友が急にそんな事を言い出したのだから、当然のことだろう。
「も、もう遅いし、つ、疲れちゃった!!」
 言いながらも、千佳の脚はすでに震えながら後ろを向き、境内から遠ざかり始めていた。不自然に足踏みをして、一方の膝をもう一方に擦りつけるのを繰り返しているため、千佳の浴衣の裾は大きく乱れている。
「え、でもまださっき、お祭回るって行ってなかったっけ?」
「そ、その、えっと――そ、そう!! 金魚!! 金魚見に行かなきゃ!!」
 その上きつく足の付け根をつかみ、大きく前後に揺すられる腰は、もう誰が見ても言い訳のしようのないトイレ我慢の証明だ。
(だ、ダメ、出ちゃだめ、我慢、家までガマンっ!!!)
 声にならない悲鳴を上げる千佳の浴衣の奥で、じゅじゅ、じゅぅうっ、とまた水音が響く。押さえつけた指の間から、水気たっぷりの布地を越して暖かい感触が脚の間を伝ってゆく。
「そっか、じゃあ千佳ちゃん、一緒に帰ろうか?」
「ダメっ!! あ、あたし先に帰るっ!!」
 はっきりと拒絶をぶつけられ――郁乃が、呆然と表情を失くす。
「え……な、なんで?」
「っ、なんでもなにもないから!! じゃ、じゃあねっ!!」
 限界寸前の千佳はもはや、傷ついた表情を浮かべる郁乃にも気付けなかった。長年の友情がはっきりとヒビが入り、音を立てて壊れてゆく。
 言うが早いか――千佳は、身を翻し、家のトイレを目指して一直線に走りだす。
 後には、ぽつん、と取り残された郁乃が、ぷらん、とヨーヨーをぶら下げたまま、その背中を見送っていた。





 家に辿り着いたころには、浴衣の被害は深刻なものとなっていた。下着はもはや壊滅状態で、水を吸った布地はわずかに身体を揺するだけでじゅぅ、と水滴を滲ませる。
 すでにちびった分だけでもかなりの量に達しているが、立て続けに摂取した水分は今もなお少女の前進を巡る旅を終え、千佳の下腹部に集まり続けている最中で、わずかでも排出されたそばからおしっこが次々と補充され続けている。
「ぁ、あっ、あっあっ」
 じゅん、じゅわ、じゅぅうっ、ひっきりなしに漏れ続ける出口はジンジンと麻痺し、下着が熱く濡れるたびにぞっとするほどの解放感が激しくオモラシの誘惑を繰り返す。
 はだけた浴衣の裾からのぞく足を幾筋も水流がつたい、脚の付け根を掴む指の間からも、ぽたぽたと水滴が垂れ落ちる。
「った、ただい、まぁ……ッ!!」
 家の前の道、サンダルを脱ぎ散らかした玄関、そしてリビング横の廊下にまで、ぽたぽたひちゃんっとオモラシの痕跡を点々と残しながら、千佳はどかどかと家の中を走り抜ける。
(っと、トイレ、トイレ、ッ、といれぇ!!!)
 一刻の猶予もない。……否、どうしようもないくらいに濡れた浴衣に、ぐちゃぐちゃの内腿、汚れた足跡。端から見ればもうとっくに千佳はオモラシをしていた。あとはトイレに入るまでどれだけ多くおしっこをおなかの中に残しておけるか――そんな違いだけだ。
 股間を握りしめる片方の手を離し、千佳はおしっこで汚れたままの手でドアノブをつかみ、渾身の力を込める。
 しかし、無情にもがこん、という重い手ごたえ。ノブには使用中の赤文字が並んでいる。
「千佳? 帰ってきたの? 入ってるわよ」
「お、お姉ちゃんっ、はやく、はやくぅ、トイレぇ!!!」
 必死の形相で足踏みをし、今にも吹き出しそうなおしっこを押さえ込みながら、千佳は乱暴にドアをノックするが、姉の声はのんきなものだ。
「なによ、もう少し待ちなさいってば。金魚、テーブルの上においてあるわよ?」
「ま、待てないっ、金魚とかいいから、っ、で、でちゃ、でちゃうぅっ!!!」
「もぅ、幼稚園の子じゃないんだから、少しくらい我慢しなさいよねー。すぐかわってあげるから」
 そんな事を言いながらも、ドアの向こうで姉が動く気配はない。
 すぐ、という言葉は今すぐではなく、次の順番で入っていい、くらいの意味合いなのだ。
「ッ、だめもうだめでちゃう出ちゃうおしっこでちゃう意地悪しないで絶対むりもう我慢できないのッ!! おしっこしたいの、でちゃうの、トイレ、おしっこっ、早くねえお姉ちゃんはやく、本当にもれちゃうっ、でちゃうっおしっこ、おしっこっ、おしっこーーーっ!!!」
 ここまでずっと、地獄のような我慢を続けて帰ってきたのに。
 絞り出すように叫んだ懇願と同時、千佳の下腹部はきゅ、きゅっ、と最後の収縮をはじめてしまった。ぷくりと膨らんだ排泄孔が、千佳の意志などお構いなしにオシッコを絞り出してゆく。
「ぁ、あっ、あ、あーっ!!」
 腰をくねらせ、膝をクロスさせ、内腿ををぎゅぅっと押しつけて、身体を丸めてオシッコのダムの決壊を塞き止めようとする千佳だが、じゅじゅっ、じゅうっ、と溢れ出す熱い液体は千佳の内腿に見る見るうちに拡がってゆく。
 裸足の脚を伝って廊下にこぼれるオシッコの滴が、ぽた、ぽたというにわか雨からぱちゃぱちゃ、ちょろろ、という本降りに変わってゆく。
「お、ね、ぇ、ちゃぁっ……」
 最後の力を振り絞って、がり、と扉をかきむしる千佳。
 一方の姉は暢気なものだ。ドアの向こうでようやく出る気になったのか、かちゃかちゃと身づくろいを始めている。
「んもぅ、ちょっと待ちなさいよ……もう4年生でしょ、あんまり恥ずかしいこと大声で言わないの」
 そのあと少しが、もう千佳にはどうしても不可能だった。
(っ、だめ、ぇっ……お、オモラシなんか、しちゃ…ッ)
 トイレの目の前で、間に合わなかった、なんていう最悪の事態だけは、どうしたって許容はできなかった。
 ふわりと腰が浮く。力を失った両膝が折れ、千佳はしゃがみ込んでしまった。
 押さえる力の弱くなった股間から、とうとう本当の勢いでしゅるしゅるとオシッコが漏れ始める。
(ぅぅああぁあああっ!!!)
 ぎりぎりと歯を食いしばり、残された力のありったけで、千佳はリビングに飛び込んだ。せめてなにか、床の上ではなく何かの入れ物に――そんなせめてもの抵抗が、千佳に残されたわずかな少女としてのプライドだった。
 千佳はテーブルの上にあったガラス製の金魚ばちを掴んだ。ぐっしょり濡れて肌に張り付くパンツを下ろす余裕などなく、浴衣の上から脚の間に、透明なガラスの入れ物を押し付ける。

 ぶじゅ、じゅるる、じゅぶぶぅーーーっ!!

「ぁ。あっ、あぁ、あっ」
 それにほんの一瞬遅れて、シャワーの先にタオルを押しつけたような、激しい水音が響いた。千佳のおしりを水浸しにしたオシッコは、押しつけられた金魚ばちの中に激しく叩き付けられる。
「出たわよ……って、ちょ、ちょっと、なにやってんの千佳!?」
 姉が驚いて声を上げる。千佳はもう、答える気力すらなかった。
 壊れた蛇口のように吹きだすオシッコが、ガラスの底にぶつかって激しく泡立ち、じゃぼじゃぼと水面を揺らしてゆく。小さな金魚ばちをあっという間に支配し、水位を増してゆくほの薄く黄色い水。
 トイレの目の前で、金魚さんのために用意してあった、大切なおうちを――千佳のオシッコが占領してゆく。
 暴れ回る水流の中で、とったばかりの七匹の金魚たちは、何事かとあちこちに泳ぎまわっていた。



 (初出;書き下ろし)
 
[ 2009/08/16 19:20 ] 小説 | トラックバック(-) | コメント(-)

夏祭りのお話・前編 


「ほら千佳、もうお姉ちゃんたち出かけるわよ。着替えなさい」
「あ、待ってよおかあさんっ」
 うだるような暑さが、夕焼け空とともにわずかに弱まり、入れ替わりに蝉の声が強くなって、それに重なるように小さな花火の音。
 ベッドに寝そべってお財布をひっくり返し、お小遣いを数えていた千佳は、慌てて飛び起き、今日のために用意した硬貨を詰め込んだお財布をポシェットに詰め、リビングに向かう。
「百恵、千佳の手伝ってあげてくれる?」
「はーいっ」
 リビングでは既に浴衣に着替え終えた姉が、千佳を待っていた。Tシャツとカットジーンズを脱ぎ、こどもぱんつ一枚になった千佳は、とてとてと姉の側に走り寄る。
「おねえちゃん、もう着替えたんだ」
「約束、5時半からなのよ。千佳も友達と行くんだっけ?」
「うん、郁乃ちゃんといっしょ」
 一番の友達との待ち合わせは6時からだ。待ちきれずバンザイをする千佳に、姉は苦笑しながら浴衣を着せてくれる。
 今日のお祭のために新しくしてもらった浴衣は、白地に向日葵をあしらった爽やかな色合いだ。いつもズボンで元気に走り回っている千佳には、ひらひらした浴衣の感触は微妙に馴染まない。
「ほら、じっとして。せっかくお洒落して行くんだから、今日くらいはちょっとはおとなしくしてなさいよ?」
「えー? そんなのやだよ。ぜったいリベンジするんだもん」
 千佳は口を尖らせた。リビングの机には、大きな透明の金魚鉢が置かれている。これも、今日のために用意したものだった。
 昨年、千佳は具合悪く夏祭りの当日に風邪を引いてしまい、泣きながらベッドで一日を過ごした苦い経験がある。一番楽しみにしていた金魚すくいもできず、それから一年、カレンダーに印をつけてずっと今日を待ち続けてきたのだ。
「あれだってお祭りの後だっていいじゃない。ちゃんと捕れるか分からないのに」
「そんなことないよ。きっと大漁だもんっ」
 ぐっと拳を握り、千佳は高らかに宣言する。
 きょうはその決戦の日だった。ピカピカの新しいおうちに、きっと沢山金魚さんを連れて返ってくると、千佳は固く決心していたのだった。
 妹の意気込みを感じ、姉もはいはい、と応じてくれる。
 もうすぐ5時を指す時計の針を見上げながら、千佳は期待に高鳴る胸とともに、ふつふつと闘志を湧き立たせているのだった。





(んー……なんかすーすーするなぁ……)
 いつもは感じるズボンの感覚がなく、下着のしたはすかすかと頼りない布がぶら下がっているだけなので、妙に脚が落ちつかない。
 とは言え、向日葵の浴衣は千佳が一番気に入っていた柄だ。鏡に見ても可愛いので、たまにはこんなのも悪くないかな、と千佳は思う。
(まだかな、郁乃ちゃん……)
 サンダルの底を鳴らしアスファルトの地面を蹴って意気揚々と出発した千佳は、予定通り6時15分前に待ち合わせの神社隣のお店の前に到着していた。
 片手には手持ち無沙汰を埋めるために買ったジュースのペットボトルと、途中の出店で買った焼き蕎麦のパック。まだ境内にも入っていないと言うのに、焼き蕎麦はその全部が、ジュースはすでにその半分ほどは千佳のおなかの中だ。
 最初はまばらだった人通りも神社に向かうにつれて徐々に増し、いまや道路は人ごみでごった返すほどだ。二年ぶりのお祭の盛況に、否が応でも千佳のテンションは高まっている。
「ん。……あ!! 郁乃ちゃんっ、こっちこっちーっ!!」
 道路の向こうに待ち焦がれていた小さな姿を見つけ、千佳は大きく手を振って叫んだ。名前を呼ばれた少女は、ちょっと恥ずかしそうにしながら慌てて人ごみをかき分け、千佳の元にやってくる。
「こんばんわっ、郁乃ちゃんっ」
「千佳ちゃん、こんばんわ」
 薄赤の格子模様の浴衣を着た郁乃は、ぺこりと頭を下げる。
「もう来てたんだ、千佳ちゃん」
「待ちくたびれたよぉ。早くいこっ」
「うん。……あれ、もうご飯食べちゃったの?」
「ん? ああ、これくらいどーってことないよ。おやつみたいもんだってば」
 焼き蕎麦のパックをゴミ箱に放り込み、千佳は笑いながら答える。ついでに半分ほど残っていたペットボトルを開け、腰に手を当てぐいっと一気飲みを始めた。
「んくっ、んくっ、んくっ……」
 瞬く間にペットボトルの中身が減ってゆく。男前な飲みっぷりに郁乃が『わぁ……』と感嘆の声を上げた。
「んっ……ぷはっ!! ふう、美味しかったー!!」
 あっという間に一本を飲み干して、千佳はけふ、とちいさなげっぷをした。
 さっきの焼き蕎麦が、ソースたっぷり、紅ショウガもたっぷりで、喉が渇いて仕方がなかったのだ。
「あはは……すごいね。……わたしならもうきっとお腹いっぱいだよ」
「そうなの? もっと食べたほうがいいよ、郁乃ちゃん。そんなんじゃ元気出ないよ?」
 きょとんと首を傾げ、千佳はそのまま空のペットボトルもゴミ箱に押し込んで、もう一度自販機に向かう。
 さすがに郁乃が驚きの声を上げた。
「ええっ、そ、そんなに飲んじゃって平気なの!?」
「うん、なんかすっごい喉渇いちゃってさー。おんなじの飲んでもつまんないし、今度はこっちにしよ。……よっと」
 さっきの隣のボタンを押して清涼飲料水を選んだ千佳は、すぐさま冷え冷えのペットボトルの封を切って口をつける。
「んくっ、んくっ……」
 今度もあっという間に、半分近くが千佳のおなかの中に消えてしまう。
「ふぅ……」
「すごいね……」
 何を褒めているのか分からないが、とにかく千佳の飲みっぷりに郁乃は目を丸くしていた。千佳もなんとなく張りきって、残りもぐいぐいと飲み干してしまう。
 実は、途中でそろそろさすがにおなかが苦しくなっていたのだが、郁乃の期待を含んだ視線を裏切れないような気がして、千佳はボトルを空にするまで無理をしてしまった。
「わぁ……ほんとに全部飲んじゃった」
「ぷは……おなかたぽたぽいってるや」
 あっという間に空になったボトルを隣のゴミ箱に放りこんで、千佳はおおきくVサインをする。
「ね、ねえ、ほんとにそんなに飲んじゃっても平気なの? 千佳ちゃん? お手洗いとかいきたくならない?」
「へいきへいき。これくらいなんてことないってば。まだまだこんなもんじゃないよっ」
 威勢良く答えて、千佳は再び空になったペットボトルを自販機横のゴミ箱めがけて放り投げた。狙いを過たずがこん、とナイスシュートでゴミ箱の中に納まるペットボトルを見て、うし、とガッツポーズ。
「今日も絶好調っ!!」
「あはは……でも、よかったよね。雨じゃなくて」
「ほんとほんと。今年もお祭中止だったらどうしようかって思ったよ。でもいざこうなったら、もう今日は遊んで遊んであそびまくるんだからねっ」
 ぐっと握りこぶしを掲げ、にかっと笑顔で宣言する千佳。友達のあまりの元気のよさに、郁乃もつられてあはは、と笑う。
 何しろ2年ぶりのお祭りだ。去年の鬱憤を晴らすかのように、溜まりに溜まった『お祭り』エネルギーが大爆発。千佳はいつも以上に大はしゃぎだった。
「じゃあ、行こうか」
「うんっ」
 にっこりと頷く親友と、千佳は夕闇の迫る境内に駆けだした。





 念入りに下見をしておいたおかげで、千佳は戸惑うことなく次々と屋台を回ってゆく。
 まずは定番の綿飴にソースせんぺい、たこ焼き、お好み焼き、フランクフルト、リンゴ飴。いつもはお母さんがうるさくておなか一杯食べられないお菓子が、今日に限っては食べ放題だ。あんなに水を飲んだのもすっかり忘れて、千佳は次から次へと屋台を駆け抜けてゆく。
「……うぅ、6等だ……」
「あたし4等!! おじさん、はやくちょうだいっ!!」
 元気に溢れ有り余っている千佳の様子に、屋台のおじさんも威勢良く応じ、古臭い携帯ゲームを取り出して渡してくれる。それをポシェットに放り込み、千佳はぐりん、と視線をめぐらせて次の屋台を見つけ出した。
「ねえ、あっち面白そうだよ?、行こ、郁乃ちゃんっ」
「わ、わ、待ってよぉ!!」
「あれ面白そうっ!! あたし絶対あれやるからねっ!!」
 そんな様子の大騒ぎが三十分あまりも続き、千佳はもはや、そのままどこかで露天でも開けそうなくらいの大荷物を抱えていた。クジで当てたゲームと指輪をぶら下げ、お面を斜めにかぶり、射的の景品を背負って突き進む千佳に、郁乃も負けじと付いてゆく。いつもはどちらかというと引っ込み思案な友人も、お祭を堪能して楽しんでいるようで、千佳はそれも嬉しかった。
「よし。これで大体回った……かな」
「はー、ちょっと疲れたよぉ……」
 流石に少しはしゃぎ疲れ、二人は境内の少し離れた場所に移動していた。
 リンゴ飴と綿菓子を交互にはむはむとかぶりつく千佳。郁乃はその隣で熱々のタコ焼きをはふはふとつつき、舌を軽く火傷してうぅ、と目を細めていた。
 お囃子の音と、さらに混み始めた雑踏。活気はいやまし、屋台に響く呼び込みの声もさらに高まっている。お祭はまだまだこれからだ。
「えっと、次はどこ行こうか?」
「うーん……あっちのほうまだ行ってないよね? お化け屋敷とかどう?」
「え゙……」
 ここで、思わぬ郁乃の提案に千佳は言葉に詰まってしまう。
「ゔ……あ、あたしそういうのちょっと、ヤダなぁ……」
「えー? どうして、千佳ちゃん、一緒に行こうよ。楽しいよ?」
 千佳はジェットコースターやフリーフォールのような絶叫系は大好きだが、そういうお化けとか幽霊とかが大の苦手なのである。一方で普段はおとなしい郁乃は、夏となるとなぜかそういう怖いところに好んで行きたがるので、千佳はいつも困っているのだった。
 汗をたらたらと流し、千佳は目を泳がせて反論する。
「ほ、ほら、暗いところだからあぶないし。それにお客さんたくさんいるから並ばなきゃいけないし!!」
「えー? いいよべつに。ちょっとくらい待っても。千佳ちゃんとお話してれば楽しいもん」
「で、でもさ、えーと……」
 目をきらきらさせる郁乃は、すでに境内の反対側に聳え立つ大きな小屋に意識を吸われてしまっているようだった。お化けの恐怖に身の危険すら感じ、ここはなんとか思い止まってもらおうと、千佳はなにかないかと周辺の屋台を見まわす。
「えーと……あ、お、おじさん、ラムネ!! ラムネちょーだいっ!!」
「わ、千佳ちゃん!? 待ってよぅ!!」
 千佳はとりあえず目に入った屋台へ、郁乃を引っ張って走り出した。
 ちょうどお化け屋敷の反対側に、いきなり手を引っ張られて転びそうになる郁乃が悲鳴を上げながらついてゆく。
「お、らっしゃい」
「おじさん、ラムネちょーだいっ」
「あいよっ!! 二百円だ」
 威勢良く差し出されたガラスの瓶。大きな氷できんきんに冷えたつめたいそれを、千佳は郁乃に押し付ける。
「ほ、ほら、郁乃ちゃんも飲みなよ。美味しいよ?」
「う、うんっ」
 あまりにも不自然な展開だが、この際勢いでごまかしきることにして、千佳は自分の分も注文する。郁乃は渡された瓶を捨てるわけにも行かず、おっかなびっくり口をつけた。
「ぅ……」
 一口を飲んで顔をしかめる郁乃。郁乃は炭酸が苦手なのだ。コップ一杯のサイダーを空にするにも30分くらいかかる。
 郁乃のことだからよっぽどのことがない限り捨てたりはしないだろうし、もてあまして飲んでいるうちはお化け屋敷の事は言わないだろうから、これでなんとかなるだろうと千佳はこっそり額の汗を拭った。
(……うぅ。でももうおなか一杯……すぐに全部は飲めないかも……)
 流石にあれだけ食べに食べていれば、げっぷがでるのも仕方がない。
 しかし、ごまかすためとは言え買ってしまったものは仕方がない。無理をしてでも飲まないとお小遣いも勿体ないので、千佳はラムネを喉に流しこむ。
 しゅわしゅわという炭酸の味が喉で弾ける感触も、残念ながらそんな気分ではいつもほどには素敵ではなかった。
「ふぅ……美味しいね」
「うん。そうだねっ」
 ちびちびとラムネを少しずつ傾けながら、郁乃も応じる。とりあえずお化け屋敷、と言う単語はどこかに飛んでいってしまったようなので、千佳はほっと一息を付いた。
 そうしてはたと気付き、千佳はぽんと手を叩く。
 すっかり舞い上がって忘れていたが、そもそも大切なことがあったのだ。
「そうだ郁乃ちゃん!! あたし、絶対に行かなきゃ行けないとこあったんだよ。去年のリベンジ!!」
「え? あ、そっか。千佳ちゃん楽しみにしてたもんね」
「そうだよ。郁乃ちゃん応援してくれる?」
「うんっ、もちろんっ」
 笑いあった二人はそのまま、金魚すくいの屋台へと歩き出す。
 けれど、お祭りに浮かれすぎていた千佳が忘れていたことは、金魚すくいの他にももうひとつあった。
 時刻は午後6時40分。千佳が浮かれ気分でおなかいっぱい、立て続けに摂取した水分は、ゆっくりと身体中を巡り、元気な身体を循環して、次第にある部分に集まりつつあった――





「ほらほらどうしたお嬢ちゃん、そのへんうまくいきそうだぞ?」
「うぅ、黙ってってばおじさんっ!!」
「……千佳ちゃん、頑張ってっ」
 薄紙の張られたポイを右手に、水を張った金属製のお椀を左手に。
 色とりどりの金魚が泳ぎ回る水槽の前にしゃがみ込み、千佳は難しい顔を崩さずにじっと睨めっこを続けていた。2年越しのリベンジとばかりに向かった金魚すくいの屋台で、千佳はもう15分も水の中の金魚とにらめっこを続けていた。
 何度も体勢を入れ替えて機会を狙うも、元気な金魚たちはポイを近付けると途端にさっと散ってしまい、なかなか狙いが定まらない。
「ほれほれ。お嬢ちゃん、どうしたい? もうギブアップかい?」
「うーっ、見てて、今年の私は一味違うんだからねっ!!」
 そう。いつもなら痺れを切らして水槽を掻き回し、あっという間にポイの薄紙を破ってしまうところだが、今年の千佳は違う。辛抱のきかない心をぐっとこらえて、じっと機会を待ち続ける。
「……うーっ」
「千佳ちゃん……がんばれ!!」
 焦る気持ちを落ちつけ、じりじりと立てた膝を入れ替え、チャンスを待つ。
 済んだ水の中を泳ぎ回る金魚たちは、千佳の視線から逃げるようにすばしこく泳ぎ回り、右へ左へと散っては集まりを繰り返す。
 息を詰め、ぐっと歯を噛み締め、千佳はじいっと待った。
 そして――
「ええーーーいっ!!」
 掛け声と共に突き出されたポイは、激しく水槽の水面に波を打たせ――
 跳ねあがる水飛沫と共に、千佳のお椀には赤と黒と白の三色に彩られた、大きな金魚がおさまっていたのだった。
「ぃやったぁっ!!」
 とうとうやってのけた達成感に、千佳はジャンプして喜ぶ。郁乃もそれに負けじと大喜びで、感極まったように千佳に飛びつく。
「千佳ちゃんすごいっ!! やったね!!」
「うんっ、リベンジ成功だよっ!!」
 待ちに待っての会心の出来にぐっと拳をかため、ガッツポーズをひとつ。
 いつの間にか屋台の周りには人だかりができていて、お店のオジサンも、郁乃も揃って拍手をして、大健闘の千佳を出迎えてくれた。
「よぉし、今のでコツつかんだっ!! おじさん、みててよ、もうこうなったらこのお店の金魚さんぜーんぶすくっちゃうんだからね!!」
「おう、そりゃすげえ。商売あがったりになっちまうな」
「じゃあ、いっくよーっ!!」
 そんな大騒ぎは、結局4回も新しいポイを買って、さらに15分以上も続いたのだった。





 赤、黒、白、捕ったばかりの色とりどりの金魚が、都合7匹。千佳のぶら下げる透明なビニールのなかで、元気良く泳ぎ回っている。
 時刻はそろそろ7時半過ぎ。千佳は溜息とともにお財布を覗き込んで、口を尖らせていた。
「ひー、ふー……もう120円しかないや…」
「あはは。千佳ちゃんすっごく食べてたもんね。射的だってもう一回もう一回って何度もやめなかったし」
「だって、もうちょっとで落っこちると思ったんだもん」
 あんなにたくさんあったはずのお小遣いは、いつの間にかどこかに着えてしまい、お財布の中にはもう十円玉しか残っていなかった。
「郁乃ちゃんはまだおこづかいあるの?」
「うん。まだ半分くらい」
「うー、いいなぁ……」
 底を尽きかけた乏しい軍資金は、何度数えてもきっかり120円。それ以上増えも減りもしなかった。まだまだ遊び足りないのに、これでは精々ジュース一本かおみくじ1回。どこに行くのも自由にならない。
「でも、わたしもちょっと疲れちゃったし、お店、見て回ろうか?」
「んー……」
 郁乃が気を使ってくれるのも心苦しいので、千佳は曖昧に言葉を濁し、なんとはなしに辺りを見まわす。
 その時、ちょうど鳥居のほうへ歩いてゆく人たちの中に、見なれたオレンジの浴衣を見つけ、千佳はぴょこんと飛び上がる。
「あ、やったぁ!! 郁乃ちゃん、ちょっと待ってて!!」
 郁乃に言うと、千佳は金魚のビニールバックを揺らしながら一目散に走りだした。人ごみを駆けぬけ、鳥居の下で数人と連れ立っているオレンジの浴衣まで一直線。
「お姉ちゃん!!」
「え? あ、千佳」
 きょとんと目を丸くする百恵の腕に飛びつき、千佳は普段は使いもしない甘い声をあげる。
「ねーえ、お姉ちゃん、今帰るとこ?」
「そうだけど……どうしたの?」
「あのさぁ、おこづかい貸してよぉ」
 レアすぎる妹の猫撫で声に、姉は微妙な表情で眉を寄せた。
「な、なによ? わ、ちょっと引っ張らないでってばっ」
「ねえ、ねえいいでしょ? お姉ちゃん。ね? ちゃんと返すからっ、ねえ、ねえねえねえ!!」
「わわわ!! こら、帯くずれちゃう……ちょっと!! 千佳、わかった!! わかったから放しなさいっ」
「やったーっ!! おこづかいゲットー!!」
 たまりかねた姉は、渋々お財布から100円玉を2枚取り出すと、千佳の手のひらに握らせる。大喜びの千佳は、文字通り現金にぎゅむーっと姉にくっついた。
「ありがと、お姉ちゃんっ」
「まったく……これだけだよ? 私、もう帰るから、千佳もあんまり遅くなる前に帰ってきなさいね?」
「うんっ!! ねえっ郁乃ちゃん、次はかき氷屋さん、行こっ!!」
「あ、ちょっと待って千佳」
「え?」
 振り返るなり駆け出していきそうになった妹を呼び止め、百恵はちょん、とその手の荷物を指差す。
「金魚。あんまり狭いトコに入れっぱなしだと可哀想でしょ。連れて帰ってあげるわよ?」
「えー?」
 せっかくの戦果を取り上げられる気分になり、千佳は不満そうに口を尖らせる。百恵も妹のそんな反応は心得たものではいはい、とその頭を軽く撫で、
「ちゃんと用意してあるんでしょ、金魚のおうち。早く広いところで泳がせてあげなさいってば。ね?」
「うー……」
 不承不承、といった風で頷き、千佳は金魚のビニール袋を百恵に差し出す。
「大事にしてよね、頑張ってとったんだから!」
「はいはい。あんたも気をつけなさいよね」
「うん。郁乃ちゃん、いこ!!」
「え、わ、千佳ちゃん、置いてかないでよぉ……わわわ!?」
「ね、イチゴにするメロンにする? あ、レモンもブルーハワイもいいなぁ……」
「わわ、千佳ちゃんあぶない、あぶないってばーっ!!」
 ようやく人ごみを抜けて追いついてきた郁乃の手をがしっと掴んで、千佳はまた駆けだした。転びそうになりながら、郁乃も必死にそれについてゆく。
 あっという間に夜店の中に消えていった妹たちを見送り、百恵はやれやれと腕を組んだ。





 千佳の様子がおかしくなりだしたのは、探し当てたかき氷さんで買ったメロン味をを食べはじめてから、まもなくのことだった。
「千佳ちゃん、どうしたの? 食べないの?」
「う、うん」
 郁乃に促され、千佳はかき氷にストロースプーンを差して、しばし思案。それから思いきったようにぱくりと口に運ぶ。
 甘さと冷たさにぶるっ、と背中を震わせて、千佳はぎゅぅっと目を閉じる。
「うー……ちょっと、一杯食べすぎちゃったから、おなかいっぱいで」
「あはは、やっぱりっ」
 くすくすと笑う郁乃。千佳もそれに応じるものの、その笑顔はどこか硬い。
 ふと下を見れば、浴衣の裾から伸びるサンダルの脚は、せわしなく寄せられて、左右に揺れ、爪先で地面の石畳を叩いている。向日葵模様の浴衣の下では、健康的に日焼けした下半身が切なげによじられ、膝小僧が擦り合わされていた。
 そう。今の千佳の興味は、目の前のかき氷ではなく、一足先に帰った大収穫の金魚でもなく、もっともっと別のものにあった。
(お……おしっこ……)
 じんじんと脚の付け根に響く尿意が、小さな背中を震わせる。
 ジュース2本に、ラムネに、リンゴ飴に、2杯の屋台のジュースに、さらにはかき氷。いくらなんでも飲みすぎなのだった。
 お祭りの勢いに浮かれて摂取しすぎた水分が、ようやくそれを自覚した身体の1ヶ所へと、急速に集まってきていた。
(……うぁ……っ)
 きゅん、と下腹部に危険な信号が走る。
 かき氷を食べる手が止まり、代わりに浴衣の上から、千佳の手のひらがそっとおなかの下のほうを押さえ込む。落ち付きなく左右に小さくくねる腰のすぐ上、敏感になったオシッコのダムが警戒水域の突破を告げていた。
「ねえ、次、どこ行こうか?」
「う、うんっとねぇ……」
 郁乃に聞かれても、千佳の返事はどこか上の空。頭も真っ白で、うまく答えが浮かばない。じんじんと痺れる股間を気にすれば、きゅうっと寄せ合わされた内腿に力を入れていなければならず、自然足取りも重くなる。
 いつしか、千佳は郁乃に引っ張られるようによちよちと歩くことしかできなくなっていた。大事なお祭のおもちゃや景品が詰まったトートバッグも、ほとんど手に引っ掛かっているだけのような有様だ。
(ぅう……ほ、ホントにしたくなってきちゃった……)
 後先を考えずさんざん冷たいものを食べ続けたせいで、さらに身体が冷えたのか。一度意識した尿意は加速度的に高まってきていた。
 あたりが暗くなるのにあわせ、いくらか涼しい風も吹いてきて、屋台の熱気に溢れる人ごみに時折の涼を運んでくる。なんでもなければ大歓迎のそんな風も、今の千佳には意地悪すぎる。
(………えっと……)
 千佳はちらり、と郁乃の様子を窺った。
 遠慮なく何でも話せる仲とは言え、やっぱり女の子として言い出しづらいことはあるのだ。
「ね、ねえ郁乃ちゃんっ」
「あれ、なに? どうしたの千佳ちゃん? どうしようか? お化け屋敷行ってみる?」
「え、えっと……」
 ぶるぶると背中が震えた。いまその単語はとてつもなく危険だ。こんな状況でもし入ったりしたら、非常に大変なことになりかねない。
(ち、チビっちゃう……かも……)
 お化けへの恐怖と、それ以上の切羽詰った下半身の事情にせかされて、千佳は小さく目を反らし、差し迫ったおしっこを訴える。
「あ、あのさ……ちょっと、おトイレ行きたいかも……」
「え、あ、そっか」
 言われて初めて気付いたというように、郁乃は頷く。
「そう言えば、わたしもちょっと行きたいかも」
 千佳に比べれば、郁乃はどうやらまだまだ余裕がありそうだったが、それでも郁乃はちゃんと千佳の意を汲んで、提案に乗ってくれた。ここで強固にお化け屋敷、と言い出さないのが、郁乃のとってもいいところなのだ。
「トイレってどこだっけ?」
「えっと、たしかこっちから行けると思うよっ」
 実はさっきから入念にチェックしていたので、トイレまでの道のりは完璧に千佳の頭の中に入っている。
 焦る気持ちをおさえつつ、千佳は郁乃を先導して境内を出た。



 (続く)
[ 2009/08/16 19:17 ] 小説 | トラックバック(-) | コメント(-)

部活のイジメの話 


「お、お願い!! トイレ!! トイレ行かせてっ!!」
 ついになりふり構わずマキは懇願してしまう。
 背中にガムテープで固定された両手は自由にならず、腰はジャージで椅子に縛り付けられたまま。上は半袖のトレーニングウェア、下にはスパッツだけという格好で、もう1時間も冷房の効いた教室に放り込まれているのだ。
 唯一自由な両脚も、さっきからぎゅうぎゅうと交差されては組み替えられ、脚の付け根の紺色の布地は、色こそ変えてはいないもののその内側に溜まりに溜まった大量の恥ずかしい液体をありありと想像させるように、惨めなくらいに皺が寄せ合わされている。
「えー? もうギブアップ? まだ3時だよ? これからが本番じゃない、部長」
「ねえ、ホントよね。『口ごたえはあとグラウンド10周追加ー!!』だよ?」
 マキを囲むように座る少女達は、それぞれ防寒対策ばっちりのジャージにアンダーウェアまで着込み、椅子に腰掛けてスナックなど齧っている。設定温度18度という常識外れな温度下でも余裕たっぷりな彼女たちに比べて、冷風の直撃を浴び続けているマキはすでに限界に近いほどに唇を青くさせ、冷や汗を浮かべながら小刻みに身体を震わせていた。
「あ、部長? そんなに汗かいちゃって、ひょっとして喉かわいてるんですか? じゃあお代わりあげますねー。はい、口開けて?」
「ちょっ、あんた達、やめッ……んぐっ、ぅうっ!?」
 たちまち見事な連携で少女達がマキを拘束し、無理矢理顔を上向かせると口を開けさせて、卓上に何本も並んだペットボトルから一本を選び、その中身を流し込んでゆく。
「水分供給って大事ですからねー。特にこの季節、熱中症にならないようにちゃんと飲まないとだめですよー?」
「ごほっ、んぐ、ぅっ、んぅうっ!?」
 むせ返り窒息の恐怖に堪えながらも、必死に息を継ぐマキの喉には、またごぼごぼとよく冷えた“あの”お茶が流れ込んでゆく。
「んぐっ、っ、げほっ、ごほぉっ!! っ、い、いい加減にしてッ!!」
 苦しさに暴れ回るマキは、脚を振り回してどうにか少女たちを振りほどくことに成功するが、その頃には500mlの大半がおなかの中へ流れ込んでいた。
 ぜえぜえと息を荒げ咳き込む惨めなその様子を目にしながら、少女達はまたくすくすと陰湿な笑みを浮かべる。
「もぉ。そんなにこぼしちゃって。もったいないなァ部長」
「ねえ。折角飲ませてあげてるのに。乱暴ですねー」
「な、なんなのよあんた達!! も、もう分かったっていってるじゃないっ、い、一体なの権利があって、こん、なっ……っ」
 睨もうとした視線、叩きつけようとした鋭い言葉が、こみ上げてくる尿意に遮断される。胃の中に流れ込んだ水分が、そのまま硬く張り詰めぱんぱん膨らんだ膀胱の中に溜まってゆくようだ。冷え切ったマキの身体の中、ここだけがまるで熟したように熱を持って脈動を続けている。
「はぅッ……」
 何度も飲まされ続けたあのお茶には、何か妙な細工がしてあるのはもう疑いようがなかった。水分補給に最適、などと言っていたが、恐らくは強烈な利尿作用を伴っているのに違いない。マキの下腹部はたとえようもないほどにじんじんと疼き、まるで焦げ付くように強烈な衝動が、内臓を鷲掴みにしたかのような錯覚すらある。
 そんなお茶をまた、コップ1杯以上飲まされてしまったのだ。実際の効果以上に、新たに水分を摂取したことによる心理的な圧迫は厳しい。
「んん……っく……はぁ、ッ……」
 ぷるぷると顎を震わせ、脚をきつく閉じあわせ、『催してしまった』マキはこみ上げてくる猛烈な尿意の波に耐える。俯いた顔を紅く染めて腰をくねらせ、唇を噛み締めるマキの様子に、周囲の少女達はますます陰湿な笑みを濃くしていた。
「ねーえ、部長、ひとつしつもーん。本当にもう限界なんですかー? 県大会準優勝の優秀な部長さんがぁ、ちょっと苦しいぐらいでそんなに簡単にギブアップなんかしちゃって、いいんですかー?」
「そうだよ。普段あんなに『軽々しく限界なんて言わない!!』とか言っちゃってる人が、たった1時間でなんておかしいよねぇ?」
「っ……だ、だから、それは……っ」
 今期から部長を任されたマキの指導が、かなり熱の入った強引なものであり、精神論を振りかざした内容からも一部の部員たちからは鬱陶しく思われているのはマキ自身も自覚しているところではある。しかしそれも、これまで人一倍努力を重ね、自信を付けて県大会でも成果を出してきた自分の経験に基づくもので、決して無謀なことを押し付けてきたつもりはなかったはずだ。
 だが――それはこうして、彼女たち部員によるマキへの私的制裁、という最悪の形で裏切られてしまった。
「あのさ、誰も彼もおんなじように出来るわけないじゃない。別にわたし、大会とか興味ないしさ。いまどき流行らないって、あーいうノリ。……ってか部長、空気読めなすぎなのよ」
「まあ言うだけなら簡単だけどねー。けっきょくこれで口だけちゃんだって証明されたわけだし? いいんじゃないの?」
「っ…………」
 好き放題な言われ様だが、マキに返す言葉はなかった。やる気を見せない部員たちに、売り言葉に買い言葉で散々張り合った挙句――たった1時間で、限界を催しトイレを訴えてしまったのだ。
 惨めなほどに擦りあわされるスパッツの脚は、県大会上位入賞をもぎ取った実力など無関係に、必死に尿意に抗する事だけに専念させられている。この惨めな姿こそがいまのマキの敗北の証だった。
「ね、ねえ……もういいでしょう!? わ、私にも過ぎたところはあったし、それも認めるわ!! ……だ、だから、いい加減にこんなことは……っ」
「あっはは、本当にもう限界なんだねー部長。可愛い。プルプル震えちゃってさー」
「でもねえ、まっさか、ここでオモラシなんてことないですよねぇ? 曲がりなりにも部長なんですから、ちゃんとトイレまで我慢してくださいねー?」
「そうそう、栄光ある我が部の部長が、トイレのしつけもできてないんだーなんて噂されるの、恥ずかしいですし」
 部員たちは口々にマキの羞恥をえぐる。そうすることでさらにマキが辛くなるのを彼女たち一人一人がよく理解していた。事実、ちりちりとまるでとろ火の様に下腹部を炙る尿意は、強烈な利尿作用を伴ってますます激しくなり、いまや沸点を超えてなお熱量を溜め込んでいる。ほんの少しの弾みでいつ突沸してもおかしくない具合だった。
「だ、だから……ね、ねえ、早くッ!! こ、これ、ほどいてっ……も、もうダメなの、と、トイレ……!! っ、漏れちゃうっ……!!」
 がたがたと椅子を揺らし、マキは少女のプライドをかなぐり捨てて叫ぶ。いまや出口をこじ開けんとする水圧を塞き止める水門は、辛うじて一本の細い細い糸で緊張を保たれているようなもの。こうしている間にも崩壊のカウントダウンは着実に進んでいる。
 マキはスパッツの下になにも身に着けていなかった。短距離を専門にする選手などは動きやすさを優先するためこのような手段をとることもある。
 一応、パットは縫い込んであるが、もともと下着の一種のスパッツは非常に布地が薄く、まともな保水力など期待できない。我慢に我慢を重ねたオシッコはわずかでもちびったら最後、股布を素通りして外に吹き出してしまうだろう事は明白だった。
「だからさ、練習時間終わるくらいまで我慢って言ってんじゃない、部長。それともなに? マキちゃんてば、それっくらいも我慢できないの?」
「うふふ、おしっこ出ちゃうー、もう漏れちゃうのぉー、だって。あははっ」
 部員の一人が始めた口真似に、どっと笑い声があがる。
「っ……」
 マキは耳まで赤くなり、さらに厳しくなる下腹部の衝撃に、必死になって脚を重ね合わせた。股間を覆う紺色の布地はぐいぐいと引き伸ばされ、皺を寄せ合い、ねじられ、こねあわされ、びくびくと痙攣を繰り返す。
 本当なら両手でぎゅうぎゅうと股間を握り締めてもなお足りないくらいの事態だ。少しでも気を抜いてしまえば、そのままオモラシが始まりかねない。
「そ、あと4時間くらいだから、部長なら余裕ですよね?」
「そうそ、余裕余裕。ガマンできるでしょ? 準優勝のマキちゃんならさぁ」
「っ……」
 当たり前のように無茶を言って、部員たちは一向にマキを解放する気配を見せなかった。そんな、まさか、いくらなんでもと思いつつも、マキの心は最悪の結果を否定できずにいる。もしもこのまま――と、万一の事態を想像してしまい、マキはぶるっと怖気に背筋を震わせた。
(そ、そんなの……嫌……っ)
 最上級生になってのオモラシなど、どんな理由があろうと絶対に許容できない恥辱だ。しかし今のマキにできるのは、声を枯らし、生殺与奪を握った部員たちに必死になってトイレを訴えることだけだった。
「ねえマキちゃん、そんなにしたい? ねえ、おしっこ出したい?」
「ッ、あ、あったり前、でしょぉッ……!!」
「あー、そんな言い方していいのかな? さっき教えたこと、もう忘れちゃった?」
 くすくすと笑う部員たち。散々股間をいたぶられ、ぐいぐいと下腹部を圧迫されながら、とうとう最初に限界を訴えた時の記憶がマキの脳裏をよぎる。
「お、お願いします、も、もぉ、漏れそうなんです…………ぉ、おしっこ…っ、…さ、させてください……ッッ!!」
 一音節を発するだけで頭の中身が蒸発してしまいそうな、猛烈な羞恥に耐えて、マキはどうにかその言葉を口にした。身をよじりながら訴えるマキに、更なる爆笑が巻き起こる。
「ふふ、そぉんなにおしっこしたいんだ。はい、じゃあね、どーしてもおトイレまでガマンできないマキちゃんに、特別におトイレを用意してあげましょうねー。よかったですねー? マキちゃん?」
 ことさらにマキを子ども扱いする口調で、部員の一人が鼻歌と共に近くのバッグを漁り、その中からひとつのモノを取り出した。
「うふふ、はいこれ、どうぞー」
「そ、それ……ッ!!」
 マキは言葉を失った。それは昨年、マキが夜遅くまで必死に努力を重ね、とうとう県大会で手に入れた――準優勝のカップだった。いまは部室に飾ってあり、それを目標にと、今年マキが部長を任されるきっかけを作った品でもある。
 この2年間の努力の結実であり、同時に誇りでもある品を、いつの間にか他人に勝手に持ち出された事への怒り――よりも先に、何故それがここにあるのかという事実がマキを困惑させる。
「っ、な、何考えてるの、アンタ……!?」
「うふふ、だからぁ」
 銀色にきらきらと輝くカップが、マキの腰掛ける椅子の下にことんと置かれる。それはマキの左右の脚の付け根の間、ちょうど今にも吹き出しそうなオシッコの出口のすぐ下だ。
「だから、ト・イ・レ、ですよぉ部長? これに、おしっこしていいんですよ? ふふ、これが、どーしてもおトイレまで我慢できない、マキちゃんのおしっこ専用のトイレ。ね?」
 にこり、と笑顔で、彼女は取り出した紙片をカップに貼り付ける。
 紙片には太いマジックでご丁寧に『マキちゃんのオシッコトイレ』と書かれていた。
「ッ………!?」
 あまりのことに言葉を失うマキに、はっきりと声に出しながら部員たちが笑いあう。
「よかったねぇマキちゃん、これでおしっこできるよぉ?」
「ガマンしてたんでしょ、しちゃっていいよ? あ、もちろん片付けるのもマキちゃんだけどね」
「ほんとにしょうがないなぁマキちゃんは。ちゃんとトイレも我慢できないんだから」
「ッ、はぁ!? な、なに考えてんの、あんた達ッ……!? ば、馬鹿じゃないの!? こ、こんなことしてッ……冗談もいい加減にしてよッ!!」
「えー、冗談なんてそんなことないよ? ねえ?」
 くすくす、と笑いあう部員たちは、まったく訂正の気配すらも見せない。
 本当に本気なの、と、マキは声を詰まらせた。
「い、いいから早くトイレっ……こ、これほどきなさいよぉ!! このままじゃ、本当に間に合わなくなっちゃうッ……」
「もう、だから言ってるじゃない? マキちゃんのおトイレはそれだってば。さっきからさ、おしっこ行きたいっていうけど、一人で歩いてトイレまでいけないんでしょ? せっかく用意してあげたのに、いらないの?」
「っ、あ、あんたッ……」
 歯を食いしばると共に、マキは戦慄する。断じて言っておきたいが、歩けないのは単に、椅子に縛り付けられているからだ。
 どうあっても、彼女たちはマキを解放するつもりはないらしい。
「そんなとこで漏らしちゃったら床汚れちゃうし、先生にも怒られるし? いつ漏らしちゃってもいいようにそのままにしといてあげるよ。……うふふ、でも、マキちゃんがいっぱいおしっこしちゃったら、溢れちゃうかな?」
「マキがちゃんと我慢すればいいんじゃない。ねー、部長なんだからさぁ」
 県大会までたどり着くのに、どれだけの努力を重ねたことだろうか。間違いなく血の滲むような練習の繰り返しだ。他の子が遊んでいる間、眠っている間、怠けている間、全てを犠牲にしてマキは努力を続けてきた。
 競技会で泣いた子だってたくさん居る。同じように上を目指す多くの選手たちと競い合って、倒し、勝ち、手に入れた――そんな憧れと誇りの象徴を――彼女達はトイレ代わりにさせようと、しているのだ。
「っ、………っ」
 負けるわけには、絶対にいかない。マキは必死になって歯を食いしばり、尿意を飲み込もうと身体を揺すっては腰を震わせ、息を荒げる。悲壮なまでの覚悟で、マキは彼女たちの挑戦を受ける意志を表示した。
 もう、トイレ行きたいなんて軟弱なことは絶対に口にしない。強い意志で身体の要求をねじ伏せて、マキはじっと部員たちを睨む。
「ふふ、頑張るねぇ部長?」
「み、見てなさい、よっ……、そ、そんな捻じ曲がった根性、叩きなおしてあげるからっ……」
「はーい、覚悟しておきまーす」
 あくまでも軽い調子で――マキが勝てないと分かっているかのように――くすくすと嘲笑を浴びせる部員たちの前で、あまりにも絶対的なハンデを持ちながらも続く、都合8時間にも及ぶ我慢劇の、後半戦4時間が始まろうとしていた。
 マキ自身、あとほんの10分もしないうちに音を上げてしまうとは、思いもよらずに――。



 (初出:書き下ろし)
[ 2009/08/16 19:15 ] 小ネタ | トラックバック(-) | コメント(-)
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