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第12夜 ウサギとカメ 


 むかしむかし、あるところにウサギが住んでいました。
 ウサギはとても足が速いのが自慢でした。力じまんのクマも、気難しくて嫌われ者のオオカミも、立派な王様のライオンでさえも、かけっこで勝負をすればウサギにはかなわなかったのです。
 今日もウサギはゴールの丘の上、ぴんと立った耳を揺らし。丘の上の木陰で、ゆうゆうと大好きなニンジンのジュースを飲んでいました。
「ぷは……勝利の味はまた格別ねっ♪」
 見下ろしてみれば、今日のかけっこ勝負の相手であるキツネは、まだ丘のふもとにさしかかったばかりです。いつもはずる賢くクマやライオンにくっついて威張っているキツネも、まさかウサギがここまですばしこいとは思っていなかったのでしょう。
 すっかりへばって汗だくのあの有様では、ここまで登ってくる前に日が暮れてしまうかもしれません。
「それにしたって、どいつもこいつも遅いわねぇ。まーたあたしの勝ちじゃない」
 ごくごくとジュースを飲み干して、ふぅとウサギは息をつきます。
 軽く湿った短い髪を払い、スパッツのしっぽをふわりと逆立たせて、退屈そうに欠伸をひとつ。
「ふわぁああ……ほーんと、相手にならない奴ばっかりでつまんないわねー……」
 とうとう丘のふもとで倒れてしまったキツネに、慌てて駆け寄ってゆくツバメやリスを見下ろして、ウサギはすっかり興味をなくしてしまいました。
「もーいいわ、帰っちゃお」
 このままキツネがゴールするのを待っているのも馬鹿らしくなったウサギは、とっとと丘を後にすることにします。
 自慢の脚でぴょんぴょんと、まるで風のように丘を駆け下りたウサギは、道すがらにふと見覚えのある姿に出くわしました。
「あら~……ウサギさん~……ご機嫌よう~……」
 間延びした声は、三叉路のずっと向こう側。
 大きな甲羅を背負ったのんびり屋のカメが、長い髪を揺らし、ずれた眼鏡を直そうともせずにほわんとした笑顔で手を振っていました。
「今日はぁ~……どうしたんですかぁ~……」
「どうも何も、見てわかんないかしら?」
 カメのじれったいほどの間延びした声に、ウサギはちょっとイライラしながら答えます。
「ええとぉ~……すみません~……ワタシ、トロいもので~……」
「……ぁあもう、うっとうしいわねアンタの喋り方!! 勝負よ勝負。かけっこ勝負で勝ったのよ!! あのキツネのやつにねっ!!」
「そうなんですかぁ~……」
「ふふん。これで99戦99勝、負けなしなんだから。あたしなら、もしライオンに追いかけられたってかるーくぶっちぎってやるわよ」
「へぇ~……すごいですねぇ~……」
 カメは相変わらずのほわんとした表情のまま、こくこく頷きます。本当にすごいと思っているのか、いまいちはっきりわかりません。
 なんとなく馬鹿にされているような気がして、ウサギはカメに言います。
「ねえ、わかってんの? この森で一番速いのってあたしなの。あたしがこの森で一番すごいのよ?」
「えぇ~……そうですねぇ~……」
 しかし、カメの様子は変わりません。眼鏡の奥のニコニコ笑顔のほわんとした糸目はまったく動かず、なんだか寝惚けているようにも見えます。
 せっかちなウサギは、カメのこのとろとろした性格が大嫌いでした。
(いいわ、相手にしてるだけで疲れるし。無視よ無視っ)
 いい加減、話しているのも嫌になって、ウサギはカメを放ってそのまま家に帰ろうとしました。いつもならこれで会話は終わり、立ち去るウサギに置いてきぼりにされ、カメはのたのたとゆっくりどこかへ歩いてゆくのです。
 けれど、今日のカメは違いました。
「……? でも~……でしたらぁ~……どうして~……こんなところに~……?」
「は? 何が?」
 意味が分からず、ウサギは怪訝な顔をして耳を揺らします。
「たしか~……かけっこ勝負のぉ~……ゴールはぁ~……丘の上じゃぁ~……ありませんでしたっけ~……?」
「良く知ってるじゃない。のろまのくせに」
「有名ですよぉ~……」
「ふん、だってアイツが来るの待ってたら日が暮れちゃうもの。そこまで付きあってあげる義理なんかないじゃない。あたしが勝ったんだからさ、負けた奴のこと気にする必要ないわね」
「……でもぉ~……それはぁ~……キツネさんに~……失礼だと思いますよぉ~……」
「失礼? なんでよ?」
 カメの言うことがわからず、ウサギは口を尖らせます。
「正々堂々の~……勝負なんですからぁ~……、相手のことも~……待っていてあげないと~……。キツネさん~……ひとりぼっちでぇ~……かわいそうです~……」
「かわいそうなことないわよ。アイツの足が遅いのが悪いだけよ」
「足が遅いのは~……別にぃ~……悪くないと思いますよぉ~……」
 やけにキツネの肩を持つカメに、ウサギはとうとうカチンときてしまいました。
 話し始めてもうずいぶん経つのに、さっきから全然前に進んでいないカメを見て、ウサギは意地悪くへぇ、と笑みを見せました。
「悪いわよ。とろとろして、うっとうしいもん。アンタなんか一番そうじゃない」
「そうですかぁ~……? ワタシは~……別に~……気にしませんけどぉ~……」
「そうかしら。家から湖まで行くのにも半日がかりなんでしょ? あー、やだやだ。そんなゆっくり生きてたら退屈で死んじゃうわ。アンタみたいな風に生まれなくて、ホント良かったわ、あたし」
「…………」
「なによ?」
 じぃっとこちらを見つめる(とは言ってもカメの目は相変わらず開いてるのかどうかも分からない糸目なのですが)カメに、ウサギは聞き返します。
 なにごとか思案していたカメは、しばらく返事をしませんでした。
 ウサギがいいかげんじれったくなってまた文句を言おうとした頃に、ようやくカメはまたのんびりと言います。
「じゃあ~……ワタシと~……勝負~……してくれませんかぁ~……?」
「勝負? たいした度胸じゃない。……いいわよ、なにするの?」
「かけっこ~……です~……」
「はぁ?」
「ですから~……かけっこ勝負です~……ウサギさん、得意ですよね~……?」
 のんびりと見上げながらボケた提案をしてくるカメに、ウサギはとうとう吹き出してしまいました。
「ぷっ、あっはははは!! ねえ、ちょっと本気? あはははっ、あ、アンタみたいなとろいのがあたしとかけっこ? 勝てるワケないじゃないのっ!! あははっ、おっかしーいっ!!」
「……本気ですよぉ~……負けたら~……ウサギさんの言う事は~……なんでも聞きますからぁ~……」
 カメは相変わらずの笑顔で、のんびりとウサギに言います。
「そのかわり~……もしワタシが勝ったらぁ~……もう、他のひとのことを~……悪く言っちゃダメですよぉ~……?」
 カメがどうやら本気らしいということを知り、ウサギは自信たっぷりに腕組みをしました。
「ふん、いいわよ。後悔したってしらないから。……いつにするの?」
「ワタシはぁ~……いつでもいいですよぉ~……」
「じゃあ明日の朝、お日様が登ってきたら一本杉の根元の切り株からスタートよ。ゴールはいつもどおり丘の上。先に着いたほうの勝ち。いいわね?」
「はい~……わかりましたぁ~……」
「遅刻するんじゃないわよ? まあアンタのことだから、今から一本杉まで歩いていっても朝までに着けないんじゃない? あっはははは!! じゃあね、のろまのカメさんっ♪」
「では~……また明日~……」
 うなずくカメを馬鹿にしながら、ウサギは走り出します。
 しばらく経ってからちらりと後ろを振り返ってみれば、カメはまだのろのろと三叉路のちかくを歩いていました。
 それを見て、ウサギはもう一度あははは、と笑ってしまいます。
「あー、もう、おっかしい。……本気であたしに勝てると思ってるのかしら、カメの奴。天地がひっくり返ったってあたしが負けるなんてありえないわよ。口だけは生意気なんだから。……思い知らせてやるわ♪」
 含み笑いをして、上機嫌に耳をぴこぴこと左右に揺らしながら、ウサギは家へと帰ることにしました。





 カメなんてまったく相手にならないとたかをくくったウサギは、その夜、すっかり夜遅くまで夜更かししてしまいました。
 お気に入りのマンガにおやつのにんじんチップスに、特製の果物ジュース。
 さんざん遅くまで起きて、ウサギがベッドに入ったのは、お月様が沈んで、もうそろそろ東の空が明るくなって来た頃でした。
「むにゃ……?」
 そんな有様ですから、ウサギはすっかり寝坊してしまったのです。
 じりりりり、とけたたましく鳴り響く目覚まし時計が、毛布の中でばたばたと暴れ続けています。
「なによ、もう朝……?」
 寝ぼけ眼で起き上がったウサギは、ベッドの上にさんさんとお日様が照っているのに気付いて青くなりました。
「って……あぁっ!!」
 慌てて見上げた窓の外では、もうすっかりお日様は空の上にありました。
 もう朝というよりは、お昼のほうが近いかもしれません。
「や、やばっ……!!」
 ウサギはとるものもとりあえず、シャツとスパッツに着替えると、とりあえずジュースを一杯だけ飲んで、顔も洗わずに一本杉まで駆け出しました。
 途中、森の動物たちが何人か、ウサギに挨拶をしたのですが、そんなものに答えている暇はありません。
「っはあ、はあっ、はあっ」
 息を荒くして、ほどなくスタート地点にたどりついたウサギですが、そこにはもうカメの姿はありませんでした。
 まさか、という思いと、ひょっとしたら、という期待を込めて、ウサギは一本杉のすぐ近くの木に家を持っているリスに声をかけます。
「ねえ、あなた、ちょっと!!」
「ん? なんだ、ウサギちゃんか。どしたの?」
「今朝ここでカメの奴見なかった?」
 リスはクルミを抱えながら、コクンと首を傾げて答えます。
「ああ、カメさんか。……えっとね、朝はやくに見たなぁ。なんか夜のうちからこの辺でキャンプしてて、お日様が出た頃に体操服に着替えてた。んで、なんか『じゃあ~……スタートです~……』なんつってどこかに歩いてったけど?」
「そ、そう。ありがとう」
 ひょっとしたら、のろーいカメはまだここまで来ていないのではないか――とちょっぴり期待していたウサギですが、さすがにそんなことはなかったようです。
 それどころかカメがきちんと時間を守ってスタートしていたカメに、ウサギはちょっと焦りました。
「ちょ、ちょっと寝坊しちゃったわね……で、でもいいわ。カメ相手ならこれくらいでちょうどいいハンデよ。うん」
 胸の中の不安をかき消すように、ウサギはあわてて首を振ると、スタートラインにつきます。
 丘の上まで続く道は、結構な距離があります。かなり時間は経ってしまっていますが、カメの脚ならまだ到着してはいないでしょう。けれど、それでも油断はできません。なにしろちょっとどころの寝坊ではないのですから。
「……カメ相手に本気出さなきゃいけないなんてっ……」
 文句を言いながら、ウサギは大きく跳ねるように走り出しました。





 ウサギが“そのこと”に気付いたのは、走り出してすぐのことでした。
(んぅ……っ、)
 ぴくん、と立った耳が、不規則に左右に揺れます。
 いつものような、風のようなスピードは出ていませんでした。スパッツの脚は、遠慮がちにきゅうっと寄せ合わされてなんとなく内股で、姿勢もやや前かがみ。
 地面が足を蹴るたびに、ウサギの表情はかたく強張ってゆきます。
「っはあ、はあっ、はあっ……」
 気ばかりが急いて、息まで上がってきていました。いつもはたったこれくらいのことで疲れたりなんてするわけないのですが、すでにウサギの首筋にはうっすらと汗まで浮かんでいます。
「んっ……」
 不意に、ぴくんとウサギは背筋をひきつらせ、その場に立ち止まってしまいました。
 ぎゅうっとシャツの前を足元に向けて引っ張り、爪先立ちになって道の真ん中に立ち尽くします。左右の耳もふらふらと落ち着きなく揺れ、スパッツからちょこんと飛び出した丸い尻尾は、ふわりと逆立って大きく膨らんでいました。
(や、やだ……っ、……と、トイレ……したくなってきちゃった……)
 寝坊していたウサギは、起きてすぐ家を飛び出したばっかりに、朝一番のトイレも済ませずにでてきてしまったのです。その上、起きてすぐに走り回って激しい運動をしたものですから、おなかのなかにたっぷり溜まっていたおしっこを、激しく刺激してしまったのでした。
「んんっ……ぅ…」
 右に左に、体重を預ける足を組み替えて、ウサギはふらふらと身体を揺すります。
(と、トイレ……っ。……ど、どうしよう、っ、か、かけっこの、途中なのにっ)
 そんな場合ではないというのに、ウサギの頭の中はあっというまにトイレのことでいっぱいになってしまいます。このまま我慢して走っていくのをためらわせるほどに、ぴくん、ぴくんとウサギのおなかの中でおしっこのいれものが暴れています。
 たまらずにもじもじと腰を揺すって、ウサギはきょろきょろと周りを見回しました。
 けれど、かけっこのコースにはトイレはありません。どうしてもおしっこがしたいなら、もう一度お家に戻るしかありませんでした。
「…………っ」
 ウサギは小さく唇を噛んで、遠く丘へ続く道を見つめます。いまだに先を進んでいるはずのカメの姿はありません。
 いくらなんでも、ここから家のトイレまで戻ってオシッコをしている暇はありませんでした。あれだけ寝坊した上にそんなことまでしていたら、さしものカメもとっくにゴールに着いてしまうでしょう。
 そうなれば、明日からウサギはカメに負けた、森で一番ののろまにされてしまいます。
(そんなの、絶対にごめんよっ……!!)
 ぷるぷると頭を振って、ウサギはお家のトイレへと回れ右しそうになる両脚をぐっと押さえつけます。
「……だ、だいじょうぶよ、これくらいっ。なんでもないわ!」
 自分に言い聞かせるように、ウサギは言葉にして心を奮い立たせます。
 ざわざわと落ち着かない下腹部をなだめるようにそっと手を寄せて、ごくっと口の中のつばを飲み込みました。
「そ、そうよ。急いでゴールしてからでも、じゅうぶん間に合うわよっ! な、なんたってあたし、かけっこチャンピオンなんだからっ…‥!!」
 覚悟を決めて、ウサギはこのままゴールまで走ることにしました。
 とん、とんと爪先で地面を叩き、感覚を掴むと、勢い良く地面を蹴って前に出ます。本気を出せば、すぐにカメなんか追い抜いてしまうでしょう。

 たったった、たったった、たったった……

 けれど、ウサギはどうしても思うようにスピードが出せませんでした。
 いつものような、風を裂いて森を突っ切る爽快な足取りとはまったく似ても似つかない、ふらふらと頼りない爪先立ちの歩みです。
「……ぁ、あっ、あんっ……っくうぅっ……」
 いくら集中していつものように走ろうとしても、オシッコの重みでたぷたぷと揺れるおなかがその邪魔をします。
 ウサギの足は自然にくっつき、歩幅も大きく広げることはできませんでした。
 おしりを突き出して、よたよたと左右に腰を振りながら、きゅうっきゅうっと膝を擦り付け合うのは、颯爽とは程遠い格好でした。
「ん、んっ、くぅ……はあっ、はあっ……」
 ですが、これが今のウサギの精一杯なのです。ふだんならひととびに飛び越してしまうようなちっちゃな小川の丸木橋も、内股のままのよちよち歩きでは、落っこちないように慎重に一歩一歩あるいて渡らなければなりませんでした。
「はぅんっ……」
 とん、と小さな段差を飛び降りるだけで、じんっ、びりりっ、とイケナイ感覚が背中を突き抜けて、腰が崩れ落ちそうになります。脚の付け根にじわじわと広がる感覚は、女の子としてなんとしても忌避すべきものなのです。
(うぅ、や、やっぱりトイレ……っ)
 ついさっきしたばかりの決心が、すぐに揺らぎだしてしまいました。まっすぐ走ることにも集中できず、ウサギの視線はあっちへふらふら、こっちへふらふらと、森の中にトイレを探してしまいます。
 ですが、やっぱり森の中にそうそう都合よくトイレなどあるわけがありません。
 ちらり、とウサギは木々の間に生えた背の高い草むらを振り返ります。本当にいざとなれば、あそこを使うしかないのでしょうが……ウサギは後始末のためのティッシュも持っていませんでした。
「だ、だから、そもそも今はそんなことやってる場合じゃ……っ」
 いまは一分一秒を争うかけっこ勝負の最中なのです。仮に、もしも、万が一、あの茂みでオシッコをすませることにしたとしても、それでどれくらい時間を無駄にしてしまうのでしょうか。
 昨日から溜まり続けたオシッコは、そう簡単に終わってくれそうもありません。
(あ、あくまで、もしもの話よっ、か、考えてみてるだけなんだからっ……)
 けれど、そうやってウサギが自分に言い聞かせるための声もどこか弱々しいものでした。だめ、だめと繰り返す思考とはべつに、ウサギの脚はふらふらとコースを外れ、茂みのほうに近づいてしまいます。
「ぅ……はぁああ……っ」
(トイレ、トイレしたいぃ……っ、は、はやく、はやくっ……)
 引いては押し返す尿意の波に翻弄され、ウサギの背中にはすでにじっとりと汗が浮かんでいました。シャツの前を引っ張った上から、スパッツの前を押さえて前屈みのウサギには、風のような自慢のスピードは見る影もなく、まるで歩くのに疲れてむずがる小さな女の子の歩みと変わりません。
 いつもの勝負でならほんの一瞬でたどり着けるはずのゴールの丘は、遠く遠く道の先にあって、いくら急いでいるつもりでも少しも近づいてこないようにも思えました。





「……ん? ……ぁあっ!!」
 どれくらい経ったのでしょうか。よちよちと小股で歩き続けていた(走る、とはとても言えないスピードでしたウサギは、ふと道の向こうを進む、小柄な姿を見つけます。
 そう、先を行っていたカメに、ウサギはようやく追いついたのです。
 カメはいつもの格好ではなく、重そうな甲羅も下ろして、体操服に臙脂色のジャージを着ていました。髪も後ろに縛り上げて、ハチマキまで巻いてやる気満々です。
 けれどやはりカメはカメ。低い背でとことこといっしょうけんめい前に進もうとしているのですが、どう見ても走るというよりは早歩きと言った方が正しそうでした。眼鏡を曇らせて頬を赤くしているカメを見て、ウサギは自分の様子も棚に上げ、思わずくすりと吹き出してしまいます。
(な、なによあれ……ぜんぜんトロいじゃないっ。あんなんでホントに私に勝つつもりなの、カメの奴?)
 確かに目的地の丘はもうかなり近くに見えますが、それでもまだ先です。あと少し油断していたら本当にカメのほうが先にゴールしてしまったかもしれませんが、追いつきさえすればこっちのものでした。
 ウサギは急いでゆっくりと進むカメに並び、声をかけました。
「なによ、ま、まだゴールしてなかったの?」
「あら~……ウサギさん~……。追いつかれちゃいました~……」
 折角のリードを追いつかれたというのに、カメはまるで気にしていないようでした。くやしがるでもなく、黙々と歩みを止めません。拍子抜けしたウサギはあわててか目の前に回り込みます。
「ざ、残念だったわね。ちょっとハンデあげようと思ったのに、ぜんぜんダメじゃないっ」
「えぇ~……そうだったんですかぁ~……? ウサギさん~……遅刻じゃぁ~……なかったんですね~……」
「あ、当ったり前じゃないっ」
 とつぜん図星を指され、思わず嘘をついてまで意地を張ってしまうウサギでした。あれだけ馬鹿にしていたカメの前でみっともない姿をさらすわけにはいきません。本当はいますぐに脚をクロスさせ、腰をクネらせてしまいたいのをぐっとこらえ、胸を張って見下ろすようにカメに言います。
「な、なにやってんのよあんたこそ。そんなトロトロ走って。やる気あるのかしら?」
「はい~……いっしょうけんめいですよぉ~~……」
「ふ、ふんっ。ず、ずっとそうやってのろのろ歩いてればいいのよっ。勝つのはあたしなんだからねっ」
「まだ~……わかりませんよぉ~……? 勝負は~……最後の最後まで~……気を抜いちゃ~……ダメですからぁ~……」
「っ、か、勝手にしなさいよねっ。さ、先行くからっ!!」
 どうもまったく話になりません。ウサギはそう言い捨てると、全速力でカメを追い抜きました。ひとつさきのカーブを曲がって、さらにその先の曲がり角まで一気に走り抜けます。
 そのまま丘のふもとまでまっすぐに駆け抜け、坂を上りきってしまえばそこでウサギの勝ちでしたが――、
「はぅぅうぅ……っ!!」
 とりつくろった威勢のよさもそこまででした。急に動いたことでポンプのようにおしっこがおなかの中で圧迫され、ウサギに襲い掛かります。
 そうなると、もう脚は走る役には立ちません。こみ上げてくるおしっこを塞き止めるのには、ぎゅうっと脚を交差させて、腿をきつく閉じ合わせるしかないのです。
 我慢に精一杯になったウサギの脚は、ぴたりと地面に張り付いたように止まってしまいました。
(ぁ、あっ、だめ、も、漏れちゃ……うっ!!)
 じわぁ、とスパッツの内側でおしっこの出口がふくらみ、ちょうど脚の付け根の中心の部分に、ぷくりと熱い感触が染み出していきます。布地をほんの少しだけ膨らませた先走りが、紺色のスパッツの股間をさらに濃い色合いに染めていきます。
(っ、あ、や、ぁ……ウソっ、で、出ちゃ……たっ!?)
 ありえない事態に、ウサギは必死になっておしっこを食い止めようとします。ぎゅうっぎゅうっと引き伸ばされたシャツの上から手のひらがスパッツの脚の間に押し込まれ、きつく張りつめた脚の付け根をこねまわします。
 けれど、効果がないどころかじわじわとスパッツの染みは広がり続け、おしりのほう、丸い尻尾のすぐしたにまでじゅわぁあっと、熱い感触は広がっていきました。
「あ、あっ、ウソ……ち、ちびっちゃった……?」
 緩んでしまった出口から漏れ出すおしっこを、たっぷりとスパッツに染み込ませてしまったことを知り、ウサギは真っ赤になってしまいました。左右の耳は力なく倒れ、へにゃん、と意気地のない狼のように髪にしたがって垂れ落ちていきます。ついっと持ち上げられたおしりの上、尻尾はまるで逆立つようにぶわぁっと毛先を広げていました。
「あんっ、あ、あぅぅっ……」
 なおも続く強烈なおしっこの波に、ウサギは身もだえして足踏みを繰り返します。自慢の俊足を、じわじわと漏れ続けるおしっこをせきとめることだけに使って、ウサギは道の真ん中で立ち尽くしてしまいます。
 しかも、困ったことにかけっこ自慢のウサギの脚は、おしっこの我慢にはあまり役にたたないのです。押さえても押さえても、ウサギのスパッツの内側にはじわじわと湿り気が広がってゆくのでした。
「あ、あぅ、あぅんっ……ま、またぁっ……」
(だ、だめっまた出ちゃうっ……!? あ、いや、いやぁ……!!)
 もはやウサギは目の前のビッグウェーブを乗り切るので精いっぱい。頭にはかけっこ勝負のことも、ゴールのことなど残っていませんでした。
 その時です。
「ウサギさん~……負けないですよぉ~……」
 後ろから響いてきたカメの声に、ウサギは飛び上らんばかりに(いえ、本当に飛びあがっていたら全部出てしまっていたでしょうが)驚きました。ウサギがもたもたしている間に、カメが追いついてきていたのです。
 ウサギは大慌てで走り出そうとしましたが、足が言うことをききません。それどころか、がくがくと震える膝は勝手に曲がり、そのまま道の真ん中にしゃがみ込んでしまいそうになるのでした。
(っ、や、やだあ、こ、こんなの見られたらっ……は、はやくっ、隠れなきゃっ……!!)
 颯爽とカメを抜き去って行った自分が、こんなところでもたもたと立ち止まっておトイレのポーズなんかをしていたら、それこそカメに何を言われたものかわかったものではありません。
 そもそも、そんな格好をしてしまえばそのままおしっこが出てしまいそうなのです。
 ウサギはぎゅうっとスパッツの股間を抑え込んだガニ股のまま、道の脇の木陰へと向かいます。





 我慢を続けたままのひょこひょこ歩きで不格好ながら、どうにかカメが曲がり角から姿を見せる前に、ウサギは木陰に隠れることができました。息を殺し、じっとしてカメが通り過ぎるのを待ちます。
「もしもし~……? ウサギさん~……?」
 あらわれたカメがきょろきょろとあたりを見回します。
 けれど、物音のしていたはずの道にはウサギの姿がないので、カメは首をひねるばかりでした。
「あや~……もう見えません~……。ウサギさんはぁ~……ほんとうに~……速いんですねぇ~……」
 まさか、そのウサギがいま自分のすぐ隣で声をひそめ、ひっしに漏れそうなおしっこと闘っているなんて思いもしていないのでしょう。カメはのろのろと、けれど立ち止まることはせずに、道を歩いてゆきます。
「でも~……ワタシも~……負けませんよぉ~……。ふぁいと~……お~……!」
 気の抜ける掛け声とともに、カメはウサギの隠れている木のすぐそばを通り掛かります。カメもいっしょうけんめい急いでいるのでしょうが、いかんせんあまりにもゆっくりで、ウサギはじれったくてしかたがありません。
 もっとも、そんなカメに追いつかれてしまうほど、いまのウサギは大変なことになってしまっているのでしたが。
(っはあ、はあっ、んもぅっ!! は、早く行きなさいよぉっ!! ほ、ホントにとろくさいんだからっ、か、カメの奴っ!!)
 その間も、ウサギは身動き一つとれませんでした。見つかってしまうわけにはいかないのです。足をふみならしての我慢も、出てしまいそうになる悲鳴も喘ぎ声も飲み込んで、必死にぱんぱんのおなかともじつく腰をおさえこんでいました。
 耳を必死にそばだてて、カメの遠ざかる足音に耳をすませます。
「ふぅ~……はぁ~……。やっぱり~……大変ですねぇ~……かけっこは~……」
(お、お願いっ、はやく、はやくしてぇ……!!)
 ウサギはもはや拷問されているのに近い気分でした。体育座りのかっこうでスパッツの上に重ね当てられた両手は、いまにも力の抜けそうになる水門を精一杯抑え込み、ぎゅ、ぎゅっと断続的に力を込め続けます。
 けれど、その手のひらの中には、布地の内側から抑えきれない熱いしずくがじゅわぁ、しゅるるっと染み出してくるのです。
 恥ずかしさに涙を浮かべながら、ウサギはじっとじっと息をひそめて耐え続けました。
「んぅ、ふっ、ふぅっ、はあっ……ふぁ、あぅうんっ……!!」
 ようやくカメの足音が遠ざかっていったところで、ウサギは息をつきます。緊張がわずかにほぐれたせいで、またスパッツにじわぁっと新しいおしっこが吹き出してしまいました。黒い染みはとうとうふわふわのしっぽの根元まで広がり、ウサギのスパッツは遠目に見てもわかるほど、足の内側だけが別の色合いに変わってしまっています。
 ますます顔を赤くして、ウサギは息を荒げ、必死になっておしっこの出口を絞めつけました。
(だ、だめ、もうだめ……っ!!)
 けれどそれももう限界です。ギュッと目をつぶり、ウサギは唇をかみしめます。とてもではありませんが、このままトイレを我慢し続けながら、かけっこ勝負はできそうにありません。
 あたりを見回し、ウサギは近くにある大きな樫の木の根元に生えた、背の高い茂みに目をつけます。ちょうど、座り込んでしまえば周りの人の目をほどよくさえぎれそうな、具合のよい場所でした。
(っ、あ、あそこで、おしっこっ、出しちゃおうっ……)
 羞恥心と女の子のプライドを、迫りくるオモラシの危機が圧倒します。
 シャツをまくり、スパッツに手をかけながら、ウサギは膝を擦り合わせたままのよちよち歩きで、茂みの奥に駆け込もうとしました。
「っふ、…あっあ、…くぅうぅうっ…」
 手のひらの間から漏れるしずくが、スパッツを超えてウサギの足につうっと滴り落ちます。引けた腰のまま、つま先立ちの内股で、途中3度ほど立ち止まりながらも、ウサギはどうにか最後の一線だけは守り、茂みにたどり着きます。 
(あ、あとちょっとっ……!! あ、あと、五秒、五秒だけっ……)
 服の上からでもすでにおしっこの準備を万端に整えてしまった下腹部をさすり、もぢもぢとお尻を振りながら、ウサギは茂みのなかに踏み入りました。
 脚にびったりと張り付くスパッツを脱ごうと、ウサギがシャツをまくり、中腰のままスパッツに手をかけたときでした。
「……あれぇ? ウサギさん、どうしたのこんなところでっ」
「え……?」
 ぐいっと後ろにおしりを突き出したウサギの眼の前に、数人の行列がならんでいました。その中の一人、買い物かごを下げたタヌキが、目をまん丸くして声を上げます。
 茂みの草の高さは、足元は隠してくれても顔までは届きません。草むらの中でしゃがみこんでも、顔は丸出しなのです。
 ウサギはちょうど、ふわふわのしっぽまでぐっしょりとおしっこで濡らしてしまって、いままさにスパッツを下げたところまで、丸見えの姿勢なのでした。
「ひょっとして、ウサギさん……トイレ?」
 あまりにことに硬直してしまうウサギの眼の前で、ぽん、と大きな音を立てて手をたたいたタヌキが、そう言います。
「っっ――!?」
 ウサギはあわててがばあっ、と身を起こし、膝まで下がりかけていたスパッツを腰の上に引っ張り上げます。急激な動作でじゅわあっ、とまた足の付け根で水音が響きますが、それどころではありません。
 垂れた耳の先まで真っ赤になりながら、凍りついてしまった舌を動かして、ウサギはかろうじて弁解の言葉を絞りだそうとしました。
「ち、違うのっ、そ、そのっ、これはっ――」
 間に合わなかった。我慢できなかった。そう言おうとしたウサギでしたが、それより先に割り込んでくる声があります。
「ウサギさん~……? あのう~……ウサギさんも~……おんなのこなんですからぁ~……そんなところで~……おトイレなんて~…しちゃ~……だめだと思います~……」
 なんと、行列の一番後ろにはカメの姿があるではありませんか。ウサギは今度こそ、完全に言葉を失ってしまいました。
「お急ぎの途中でも~……ちゃんと~……お手洗いを~……使ったほうがぁ~……いいと思いますよぉ~……?」
 そう言うと、カメは進む行列の後に続きながら、真上の木の幹を指さします。
 そこには、真新しい大きな文字で『公衆トイレ』と書いてあるのでした。あんなに行きたかった場所がこんなところにあるなんて、ウサギにはまったくの初耳です。
 頭が真っ白になってしまったウサギの前で、ざあーっ、と流れる水の音が響きます。
 先に個室に入っていたタヌキが、ドアを開けて手を拭きながら外に出てきました。
「ふぅ~……さっぱりしたぁ♪」
 買い物かごを抱えたタヌキは、次の順番を待つカメを振り向いて、首をかしげます。
「ねえカメさん。なんか見慣れないかっこしてるけど、ひょっとしてウサギさんとなにかしてたの?」
「あぁ~……タヌキさん~……じつはですねぇ~……いま、ワタシはぁ~……ウサギさんとぉ~……かけっこ勝負の~……最中なんですよぉ~……」
「ええっ!? それ、ほんとう!?」
「はい~……勝ったほうがぁ~……負けたほうの~……いうことを聞くって~……勝負なんですよぉ~……」
 のんびりと答えるカメに、タヌキはぱあっと顔を輝かせ、またぽぉんっ、と大きく手を叩きました。
「うわぁ……こりゃすごいね、ビッグニュースだっ!! こりゃあおつかいなんてしてる場合じゃないねっ!! すぐにみんなに知らせなきゃっ」
 言うが早いか、タヌキは買い物かごを放り出し、風のような勢いで去っていってしまいました。取り残されたウサギは、呆然とその背中を見送ることしかできません。
 そうしている間に、トイレの順番待ちの列はまた一つ進んでゆきます。
「じゃあ~……ウサギさん~……お先にしつれいします~……」
 はっ、と気づいた時にはもう遅かったのです。
 ウサギが我に帰った時には、もうカメは空いた個室の中に入ってしまったところでした。
(えっ、あ、あっ、や、ま)
「ちょ、ちょっと待ってっ、待ってよぉっ!!」
 取り乱したウサギは、行列を突き飛ばしてカメの入ったトイレへと駆け寄ります。一歩前に進むごとに足元にはじょろぉ、じじょじょじょぉ、とおしっこが漏れ始めていました。
 汚れた手で、ウサギは激しくドアをノックします。
「や、やだぁ、変わってっ、あ、あたしもトイレ、トイレぇ!! も、漏れちゃうのっ、もう我慢できないのぉっ!!! はぅうっ……!!」
 ドアにしがみつくようにして、ウサギがさけぶと、堰を切ったようにスパッツの内側からあふれ出したおしっこが深く色を変えた紺色の布地を押し上げて、ばちゃばちゃばちゃっと地面に飛び散ります。たちまちウサギの足元には薄黄色の水たまりが広がりはじめました。
「うぁ、あっ、あ、お願いっ、おねがいはやくぅ!! トイレ、トイレっ、おしっこ出ちゃう!! もう出ちゃうぅ!!!」
「ええとぉ~……でもぉ~……ワタシのほうがぁ~……先に並びましたよぉ~……?」
「だ、だからそうじゃなくてぇっ……!!」
「……ワタシもぉ~……ずっとぉ~……ガマンしてましたからぁ~……ちょっと~……すぐには無理です~……」
 もうウサギは、一歩だって歩けませんでした。
 自慢の足も、手も、オシッコの出口を締めつける以外のなにもできません。すっかり垂れてしまった耳が、羞恥にふるふると震えています。細い腰と背中はびくびくと痙攣し、腰奥に溶けて広がるオモラシの開放感に打ちふるえます。
「あ、あたしのが先なんだからぁっ……お、お願いっ、お、おしっこ……先に、さきにおしっこさせてぇっ……!!」
 どんどんと激しいノックが、涙混じりの嗚咽にかき消されて次第に弱まり、同時にじじゅじゅぅ、じょろぉぉお……という水音はますます激しいものになっていました。片手だけで抑えたスパッツからあふれたおしっこは、びしょぬれになって見る影もない丸い尻尾からもぽたぽたと垂れ落ち、トイレの前に大きくひろがってゆきました。
 するとその時ようやく、ドアの奥から、ちょろ、ちょろろろぉ、というカメのおしっこの音がはじまります。
「すみません~……もうすこし~……かかります~……」
 カメのおしっこといったら、まったくもう嫌になるくらい長ったらしいものでした。いつまでたっても全く終わる気配のないカメのトイレに、焦らされ続けたウサギのガマンはもう限界でした。
「っ馬鹿ぁ、は、はやくしなさいよぉ、で、出ちゃう、おしっこ、ぜんぶ出ちゃうじゃないっ……!! ああぅっ、くぅぅ……!!」
 ウサギがとうとうありったけのおしっこを出してしまってからも、なおカメのトイレは延々と続きました。
 ドアの前でおしっこの湖にへたり込み、ぐすぐすと泣いているウサギに、ようやくドアの向こうから顔をのぞかせたカメが言います。
「あのぉ~……ウサギさん~……いくらかけっこ勝負だからって~……おしっこは~……ちゃんと~……お手洗いにいきましょうねぇ~……?」
「ぅぁっ、ひっく、ぐすっ……」
 馬鹿にしていたカメにそんなことまで言われてしまって、ウサギは、とうとう動けなくなってしまいます。
 その頃、タヌキに勝負の話を聞いてようやく駆けつけてきた動物たちは、いったいゴールでもないところで二人が何を話しているのだろうと、しきりに首をひねるばかりでした。




 ……結局、かけっこ勝負は途中でどこかにいってしまいましたが。
 とりあえず、めでたし。めでたし。


 (初出:おもらし特区 2009.07.03)

[ 2009/08/30 16:06 ] WetMarchen | トラックバック(-) | コメント(-)
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